■S:今日の聖書の言葉
詩篇32篇1~2節
★幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。
■O:今日のコラム
昔、フォークソングで「幸せですか?幸せですか?あなた今」という歌を聞いたことがあります。みなさんは幸せですか?人はだれでも幸せを求めています。また、幸せの定義は人様々です。それでは、聖書が言う幸せとはなんでしょうか。
今日のみことばには、幸いな人の定義が書かれています。
1)そむきを赦された者
2)罪をおおわれた者
3)主が咎を認めない人、霊に欺きのない人
聖書はこれらの人が幸いだと言っています。また、ここでの幸いは単なるハッピーな状態だけでなく、「人々がうらやむほどの最高に幸せな」という状態を表します。人が決める幸せではなく、聖書が言う幸せな人生を送るために、一つひとつの項目を詳しく見ていきましょう。私たちがどこから救われたかを知るとき、私たちは本当の幸せな人生を送ることができます。
1)そむきを赦された者
ここの「そむき」の意味は、神への反逆を最も強く表現することばで、神の律法の教えを破ることです。罪は全て神の御前に許されないことであり、罪がもたらす結果は死です(ローマ6:23)。
その中でも最も重大な罪が神に対するそむきです。神の律法の教えを破るということは、神の戒めを守らない、つまり、神に対して不従順ということができます。そのような者はどうなるでしょうか。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)
みことばなるイエス様に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒り、つまり永遠の裁きがその上にとどまると書かれています。なんと恐ろしいことでしょうか!
「しかし、神はわたしたちのそむきを赦してくださいます。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:5後半)
私たちは自分のそむきの罪を認め、それを主に告白するなら、主はそむきを赦してくださいます。なんと優しく寛大なお方なのでしょうか!
2)罪をおおわれた者
「罪」とは「的をはずす、道を踏み外す」と言う意味で、この歩みをしてると、神の定められた道を踏み外し、人生の目的を失うことになります。
的とは何でしょうか。それは神の律法です。神の戒めです。それから外れてしまうのであれば、人の目から見てどのように熱心で一生懸命行っているように見えても、神の目には間違った方向への歩みとなってしまいます。それ故に、一生懸命神の律法を守ろうとしていた律法学者にイエス様は次のように言われたのです。
「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」(マタイ23:33)
では、神の御心のど真ん中、的を得る生き方とは何でしょうか。それは神の戒めを守る生き方です。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネの福音書14:15)
しかしどうでしょうか。神の戒めを守ることは簡単でしょうか。時には簡単であり、時には難しいと思います。みことばもそのように教えます。
「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)
では、完全に神の戒めを守るためにどうすれば良いのでしょうか。それは自分の肉の性質に死ぬことです。
「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)
しかし、自分の努力では死ぬことはできません。エデンの園で人が罪を犯したとき、自分の力(いちじくの葉)でつづり合わせたもので自分自身をおおいました。しかし、神は獣をほふり、血を流し、その皮で衣を作り、それで人を覆われました。血はいのちなので、命によって贖われました。
キリストも私たちを罪の奴隷の状態から、ご自身の罪なき血、いのちによって私たちを買い取ってくださいました。不義の衣から義の衣へと着せ替えてくださいました。キリストの義によって私たちはおおわれています。このことを知るなら、神に対する感謝が溢れてきます。
3)主が咎を認めない人、霊に欺きのない人
最後は咎です。咎とは、本来は「ゆがむ」という意味で、不義とも訳されます。罪の結果生じるものが咎ということもできます。また、のろいとも言うことができます。咎を持っていると、その咎は三代、四代の子孫にまで影響を及ぼしてしまいます。
「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、」(出エジプト記20:5)
イエス様の血潮でこれらは断ち切られなければなりません。私たちの代で咎を断ち切り、私たちに続く子孫には恵みを千代まで保つよう信仰を継承していかなければなりません。
この咎に対しては、主が咎を認めない人が幸いだと書かれています。咎を覚えない、つまりまっすぐに生きる者です。義の道を歩むものです。そのためには、日々の悔い改めが大切です。神様の基準に立ち返ることです。何によって神の基準を知ることができるでしょうか。それはみことばによってでしか知ることができません。
「そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。」(ルカの福音書3:4~5)
そむき、罪、咎、それぞれの性質を知り、それぞれに対する正しい対処をすることで、私たちは聖書が示す本当の幸いな人となることができます。
■A:考えてみよう
・聖書が言う「幸いな人」とはどのような状態の人ですか。
・「そむき」とはどういう意味ですか。また、そむきに対してどのようにされた人が幸いな人ですか。
・「罪」とはどういう意味ですか。また、罪に対してどのようにされた人が幸いな人ですか。
・「咎」とはどういう意味ですか。また、咎に対してどのようにされた人が幸いな人ですか。
・幸いな人になるために、私たちができるアクションはなんですか?
バプテスマのヨハネも、イエス様もこのように言われます。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2, 4:17)
悔い改めは天の御国へ続く道です。具体的に何を悔い改めていいかわからない人は、悔い改めのテキストブックもありますので、それを用いて悔い改めの祈りを主に導いていただくのもいいでしょう。(天の扉を開く宝石「悔い改め」 https://artofgod.jp/?pid=120919897)
主は私たちの思いがけないときに私たちを迎えに来られます。今日という日に悔い改め、主が来られても来られなくても常に備え、この地においても幸いな人として歩んでいきましょう。
■P:祈り
愛する天のお父さん。心から感謝します。イエス様の血によって私のそむきは赦されました。イエス様の血によって私の罪はおおわれました。イエス様の血によって私の咎はもう主に認められません。
罪から来る報酬は死であります。これは永遠の神との断絶です。本来ならこのところに私も行くはずでした。しかし、神が遣わしてくださった御子、イエス・キリストの死と葬りと復活により、私は神とともに永遠の命を与えられたことを感謝します。
しかし、一度信じたから、あとは神と無関係に歩むというのは本当の救いを受け取った者の歩みではないことを教えられました。毎日水と血と御霊によって私を洗ってください。まつわりつく罪から私を日々救い出してください。私の人生のどの瞬間にもイエス様、あなたが必要です。
毎日悔い改め、悔い改めの実を結んでいくことができるよう、私を教え、導き、助けてください。悔い改めの人生を送ることができるものこそ、幸いな人であることを感謝します。
愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【 しゅん 】
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