■S:今日の聖書の言葉
ヘブル人への手紙3章18~19節
★また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
■O:今日のコラム
聖書のあらゆる箇所にみことばを実行することの大切さが書かれています。
ヤコブ書の中で、みことばを受け入れるならたましいを救うことができると書かれていますが、そのすぐ後で、みことばを実行する人となりなさいと書かれています。
「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブ1:22~23)
聞いても行わないのであれば、鏡で自分の生まれつきの顔を見るが、離れるとそれを忘れてしまう人に例えられています。
生まれつきの顔とは、私たちが罪の堕落以前に造られた本来の神の子どもの姿だと思いました。しかし、それをみことばにより見て、知っているのに、それを行わなければ、私たちの実際の人格に刻まれていくことはありません。
みことばを実行する時に、みことばどおりの人、人格になっていくのだと思いました。パウロが語っているように 、私たちのからだが贖われ、私たちの肉体のうちにも神の子としてのかたちが現されていくことを祈り求めていきたいです。
みことばは口には甘いですが、実際行おうとする時に、腹には苦いものです。みことばを実践する力を聖霊様に求めていきましょう。
今日の聖書箇所において安息について書かれています。安息に入れなかったのは、従わなかった人たちのことと書かれているので、みことばを聞いて従う時に本当の安息に入っていくのだと思いました。
アダムもエバも神様のことばに従わず、善悪の知識の木の実を食べた時に、その先にあったのは神様との親密さの断絶でした。神様の声を聞いても、御顔を避けるようになってしまいました。
みことばに従わない時に、ローマ人への手紙でも「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)と書かれているように、あくまで霊的な死、神様との親密さの断絶があるのだと思います。安息とは反対ですね。私たちは日々みことばに聞き従い、神様が与えてくださる安息の中に努めて入っていきましょう!
「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:10~11)
■A:考えてみよう
今日、語られているみことばは何ですか?祈り求め、従う一歩を踏み出して行きましょう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あいこ 】
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