■S:今日の聖書の言葉
列王記 第一 18章42節(同17章)
★ そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。
■O:今日のコラム
列王記 第一 18章はエリヤの働きのクライマックスとも言える箇所です。バアルとの預言者の戦いで祭壇の上に天から炎が下される箇所は何度読んでも信仰が奮い起こされます。
しかし、この18章のクライマックスは天から炎が降る箇所ではなく、実はそのもっと上があるのです。それが42節以降の出来事です。
エリヤはここでカルメル山の頂上に登った事が記されていますが、そこでエリヤは地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめて祈りました。これは当時のイスラエルにおいて母が子どもを産む時のお産のポーズだと言われています。つまり、エリヤはとりなしの祈りを持って産みの苦しみを味わったのでした。
この祈りを7度繰り返した後に、雲が湧き上がり3年6ヶ月間雨が降らなかったイスラエルに激しい大雨が降りました。新約聖書においてヤコブは手紙にエリヤの信仰について、この雨を降らせた祈りに言及して記しています。
「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブの手紙5章17-18節)。
私達はエリヤの記事を読む時「彼が特に油注がれた預言者だからこの様な御業が次々と起こったのだ。」と思いがちです。しかし、ヤコブは私達に「エリヤは、私たちと同じような人」であった事を伝えています。
つまり、イエス・キリストを信じ、聖霊様が内に住まわれる私達の祈りを通して主は、エリヤに行なったのと同じように奇跡と主の業を解き放たれるのです。しかし、エリヤでさえも奇跡を見るまでは7度祈り、とりなしの苦しみを味わう必要がありました。
だから私達も祈りにおいてあきらめない者になりましょう。
救われてない家族や友人、この国の救いの為に今まで何度も祈ったし、福音も伝えた、という理由であきらめてはなりません。
ここで主はエリヤの祈りに応え天の窓を開いて下さった様に、必ず主は家族の上に救いの扉を大きく開いて下さいます。祈り通す事を共に決心しましょう。
またこの国に聖霊とリバイバルの激しい雨を注いで下さいます。天ではこの産みの苦しみ、とりなしの祈りを共に捧げる聖徒達を探しています。私達がその信仰の祈り手達です。
■A:考えてみよう
今日から、主の御前にあきらめないで祈り通す決心を共にしましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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