■S:今日の聖書の言葉
ヘブル5章8~10節

★キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

■O:今日のコラム
イエス様はあらゆる場面で「わたしについて来なさい。」と呼びかけてくださっています(マタイ9:9,16:24,19:21 マルコ1:17,2:14…etc)。物理的にイエス様の後ろにくっついていく以上のことを、イエス様は意味しておられました。

「わたしについて来なさい。」とイエス様が語られた箇所を、詳訳聖書で見るならば、その多くは「わたしの弟子となりなさい。生きるのにも、死ぬのにもわたしの模範にならいなさい。わたしの道をたどりなさい。」という意味が含まれていることが分かります。

「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、 日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(ルカ9:23)

「イエス様についていく」とは、イエス様の弟子となり、イエス様の歩まれた道をたどること、イエス様が生きられた通りに自分も生きることを意味します。

今日の箇所でイエス様は、「お受けになった苦しみによって従順を学ばれた」とあります。今日はイエス様の歩まれた道の一つである「従順」を見てみたいと思います。

最近、我が家ではヘブライ的教育に基づいた聖書の学びを子どもたちと日々取り組んでいます。その中で、従順について学んでいます。聖書の中に出て来る2つの種類の人間、それは「神の命令に従い祝福を受ける者」と「神の命令に従わず滅びをその身に招く者」です。

従順は、私たちが命を得るのか、その反対に命を失うのかを分ける非常に重要な事柄です。そのことのゆえに、目に見える親、権威者に従うことを子どもたちに教えることは、子どもたちの永遠のいのちに関わる重要なことであると重く受け止め、また自分自身も同様に従順となることを、子どもたちと共に学んでいます。

従順について学ぶ中で、「権威者に直ちに従います」という決心と告白をする項目があります。これもなかなか、レベルの高い従順だと思ってしまうのですが、その中で「明るい態度で従います」という告白がありました。

今日の箇所で、「お受けになった苦しみによって従順を学ばれ」とあるのですが、原語ではこの従順が「積極的な服従」という意味で書かれています。

主は、私たちがどんな大きな働きをしたか、どんなに目立つ働きをしたか、またどれだけたくさん仕えたか、どれだけ戒めを守ったか以上に、いつも見ておられることがあります。それは、私たちの心の態度です。私たちが、喜んでそれをしたのか、喜んで捧げたのか、喜んで従ったのか、喜んで仕えたのか。

従順とは、自分の願いと反したとしても、自分の願うこと以上に、上の者の願うことを優先することを意味します。楽しいこととは思えません。まして、喜んで従うのは本当に難しいと感じます。

けれども、従うことに喜びを覚えることが出来る方法が幾つかあります。

一つは、その報酬を知り、それに目を留めるということです。従順になったその先に用意されている報酬が見えるならば、そこへの期待をもって従うことが出来るでしょう。

ヘブルの11章ではモーセのことが次のように記されています。

「はかない罪の楽しみを受けるよりは、 むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:25-26)

私たちがこの地上での目先の報いばかりを見ているなら、神の戒めに従うことは虚しく、まして喜んで従うなど、拷問のように感じるかもしれません。けれども、今日、この地上でのはかない報いではなく、永遠に報いとして与えられるものがなんであるかを思い巡らし、それを見つめ直しましょう。

喜んで従うことが出来るもう一つの方法。それは、主との愛の関係です。

自分を愛してくれているかも分からない人の言う言葉に従おうとするなら、「本当にこれでいいのだろうか」という疑いが湧いてくるでしょう。「なんでこんな人の言う通りにしなきゃいけないの…」という不満まで出てくるかもしれません。

けれども、自分を愛し、自分の最善を願ってやまない方の言うことならば「この方の言うことに従うなら、間違いない!」と確信と喜びをもって従うことが出来るでしょう。

まして、その方と深い愛の関係があるなら、「このお方を悲しませたくない。このお方に喜んでいただきたい。」という飢え乾きすら起こるのではないでしょうか。

言うのは簡単です。「それが理想だし、正解だろうけど…」そう思われるかも知れません。そうです、声を大にして言いたいですが、実践するのは簡単ではありません!

そのために、私たちが祈るべき重要なみことばでの祈りがあります。

「また、 あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、、、知ることができますように。」(エペソ1:18-19)

私たちは、私たち聖徒が受け継ぐようにと主が用意されている報いがどのように栄光に富んだものか、どれほどに素晴らしいものかを知る必要があります。

それを悟ったなら、その報いのほんの端っこでも見ることが出来るなら、私たちの従順には大きな喜びが伴うと信じます。受け継ぐもの、永遠の報いを悟るなら、イエス様が示された「積極的な服従」を、私たちも成すことが出来るでしょう。

また、もう一つのみことばでの祈り。

「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:18-19)

人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることが出来るのなら、どれほどに愛されているのかを知ったなら、従うことは喜びでしかないでしょう。

どちらも、御霊の助けを求める祈り、私たちの心の目を開き、悟りを与えてくださる御霊を求める祈りです。もちろん、報いが見えない時も、理由が分からない時にも、心が伴わない時にも従うということが本物の従順です。

けれども、私たちはイエス様が模範として示された従順、神に喜ばれる従順、喜んで従う、積極的な服従を目指していきたいと願います。

■A:考えてみよう
私たちの受け継ぐものが、永遠の報いがどれほどに素晴らしいものかを悟ることが出来るまで、このエペソ1章17~19節のみことばを自分の祈りとして、しつこく御霊を求めて宣言し、祈り続けましょう!

また、人知をはるかに超えた愛を、もう一度言います、人知をはるかに超えた愛!それを悟るためには、どれほどに御霊の助けが必要でしょうか?!これを知ったなら、もう他に何もいらない!と心底思えるようになるのだろうと思います。それを、知ることが出来るために、是非熱心にこのエペソ3章18~19節を共に祈っていきましょう!

■P:祈り
どうかどうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父よ、神を知るための知恵と啓示の御霊を私に与えてください!
私の心の目を開き、はっきり見えるようにさせてください。
そして、神の召してくださる道は、その召された通りに生きる道は、どんなに希望が溢れていることかを悟らせてください。 私たち聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、どれほどに素晴らしい報いが用意されているのかを見させてください!
また、私たち信じる者に働く神のすぐれた力、その全能の力がどれほど偉大なものであるかを、悟ることができますよう助けてください。
また、人知を遥かに遥かに超えたキリストの愛を、その無限に続く愛の広さ、長さ、高さ、深さを、理解することができますように、御霊よ、理解する力を私に与えてください!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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