■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書21章15節
★彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
■O:今日のコラム
ヨハネの手紙最後の章です。イエス様が十字架にかかり、よみがえられた後に弟子たちにご自身を現されて三度目の場面です。
弟子たちは、イエス様がいなくなり、みな元の職に戻っていました。彼らは三年間という月日をイエス様と共に過ごし、「イエスの弟子」として人々に名前を残していたにも関わらず、イエス様が死なれた後には、イエス様がなさった御業や語られた福音は何一つ継承しませんでした。
弟子というならば、師の後を継いでいくものです。尊敬と敬意を表しますよね?しかし、イエス様の弟子ときたら…と思ってしまうのは私だけでしょうか(笑)。どれだけ淡白な人種なのか、はたまた悲しみが激しすぎて燃焼してしまったのか、は聖書には書かれていませんが、弟子たちやイスラエルの人々が願っていたこと、それは、「国が復興される」という方が強かったのではないかと思います。
当時ローマに支配されていたイスラエルにとって、自分たちの国が正しい王によって支配されることはとても大切なことであったと思います。しかし、それにふさわしいイエス様さえも死んでしまった。「私たちは次にふさわしい人をいつまで待てばいいのか。」という複雑な思いと希望を失ったような暗闇を感じたのではないでしょうか。
そんなわけで、弟子たちはペテロを筆頭に次々へと昔の働きに戻って行ったのでした。そんな中、イエス様が現れ、食事が済んだ後にペテロに問われます。「ヨハネの子シモンよ。あなたはこの人たち以上に私を愛しますか?」
とにかくペテロにとっては衝撃であったでしょう。なにせ、自分の名前を「ヨハネの子シモン」と呼ばれるということ、場面的には本当にシリアスな状況が伺えます。
親に怒られる時や先生に注意される時って「◯◯ちゃん」「◯◯君」と呼ばれるのは少ないと思います。「◯◯!!」とダイレクトに名前を呼ばれてから怒られますよね(笑)多分きっとペテロも「ヨハネの子シモン」と呼ばれた時はドキっとしたのではないでしょうか?そしてイエス様の質問。本当に深くて重い言葉だなと感じます。
しかし私が今回感じたことは深さや重さではなく、イエス様はどこまでもへりくだっていて慈愛に満ちている方だなと教えられました。
普通悪いことをした人が謝りに行くのは当然です。もちろん弟子たちは悪いことをしたというよりただ元の職に帰って行っただけなのですが、弟子たちがイエス様から命じられた命令を守っているかと言えばそうではないので、約束を破っているという意味ではそう言えるかもしれません。
そんな彼らに、まずイエス様の方から近寄ってくださった…なんという愛なのでしょうか。「そうか。人が神を見出すのではなく、神ご自身が人を見出してくださったのか。」という深い感謝の気持ちでいっぱいになります。イエス様はどれだけ優しいのでしょうか。
私たちは弟子たちを指差して、なんであんなにすぐ離れて行ったのか?と言えるような立場の人ではありませんよね。もし今、罪の中にいるならば、イエス様の言葉を守っていないのなら、主の目から見て同じであると言えます。
では、今もイエス様ご自身から私たちに来てくれるのでしょうか。はい、そうです。昔も今も変わらないただ唯一の神は、今も私たちに自ら近寄って聞いてくださいます。
「わたしを愛しますか?」へりくだっている花婿なるイエス様の愛のプロポーズであるこの深い言葉に答えたいですね。
■A:考えてみよう
今日主の語りかけが聞こえているだろうか。どこまでもへりくだっておられるイエス様に今日も感謝と敬意を表しましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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