■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書3章19~21節

★そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

■O:今日のコラム
初めのアダムが罪を犯した後、アダムたちがとった行動は腰におおいを着け、主の御顔を避け隠れることでした。自分の中にある罪が明るみに出ることを拒む性質は、私たちにも存在します。

私は小さい頃から人に失敗を正直に打ち明けたりすることがとても苦手だったのを思い出します。ある日、私がしてしまった悪いことが両親に知られてしまいました。私は何度も母親に問いただされたのですが、父親から怒られるのが本当に怖くて口を閉ざしたままでした。数時間後、ようやく自分の口で「はい、僕がやりました」と認めることができたのです(当然、父親からも叱られました)。

自分のしてしまったことをできれば誰にも知られずに隠したままにしておきたい。後に来るであろう誰かからの怒りをあまりにも恐れるがゆえ、またそれを隠したままにしておくなら以前と変わらない関係を続けられるのではないか・・・。イエス・キリストの十字架なしに生きようとするならば、私たちはいつも何かに怯えているような本当に窮屈な生き方を強いられてしまいます。

しかし聖書にはこのようにあります。

「造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです。」(ヘブル4:13)

ある時、このみことばを深く受け取ったときから、神様の前には正直な者でありたいです、と心から願うようになりました。私たちの全てを主が知っておられ、善きことには報いてくださる一方、罪については言い逃れや言い訳を何一つすることができないならば、たとえ何らかの形でさばかれる(叱られる)ことになったとしても、進んで自分自身を神の光の中に置き続け告白しようと努めています。

そうするとき、神が私を知っておられるんだ!という、不思議な平安に包まれることを体験します。私たちが直ぐな心で御前に出ていくとき、そこには十字架の恵みがあるからです。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを 捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

罪のゆえに裁かれるべき私の身代わりとなって、御子イエスが血を流してくださった。イエス様が成し遂げてくださったことは、今なお私たちに罪の赦しを与え、神に従うという自由と喜びを与えます。

この恵みは、恵みを受けるために罪を犯そうという放縦に私たちを導くのではなく(ローマ6章)、むしろ私たちが聖さのなかを歩めるように、真理を行うことができるように導きます(テトス2:11~14)。

今日も神の光の中、御父が私たちの弱さを含めてすべてを知ってくださっている平安の中を歩み、イエス・キリストの十字架だけが私の誇りですと心から宣言する一日でありますように。

■A:考えてみよう
・これだけは誰にも知られたくない恥の思い、隠しておきたいことが心の中にあるだろうか。
・神の光の中に自分の全てが照らされるとどうなりますか。
・イエス様の血潮の力、十字架の恵みは私たちをどのように造り変えるでしょうか。

■P:祈り
聖霊様の助けによって罪を告白し、イエス様の血潮の力を宣言して罪の赦しを受け、どんな時でも神の光の中を歩むことができるように祈りましょう。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ぺい 】

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