■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書1章1節
★初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
14節
★ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
■O:今日のコラム
「恵み」について説明してくださいと言われたとしたら、皆さまはどのようにお答えになりますか?
私はある時まで、「恵み=神様から一方的に私に注がれている好意・祝福」だと考え、定義していました。しかし、私のメンターが「恵み= 御言葉なるイエスキリストが与えられていること」と言われ、前者の恵みの定義は人が中心になった恵みの定義であると言っているのを聞いたことをきっかけに、私の中で「恵み」に対して考えるようになりました。
そして今日の箇所であるヨハネの福音書1章1節、14節をもって、「恵み=御言葉であるイエスキリストが私たちの間に住んでくださった」こと、つまり御言葉が与えられていることこそ本当の恵みであると思いました。救いが主のためであるのと同様に、恵みも人が中心にあるのではなく神が中心にあるもので、恵みも主のためにあることを覚えたいと願います。
私たちは何ができるできないに関係なく、何を成し遂げた成し遂げていないに関係なく神様に愛されている存在です。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
私たちの存在を愛するがあまり、父は御子を私たちに賜ってくださいました。愛ゆえに御言葉を与えてくださいました。恵みとまことに満ちておられる方が私たちのただ中に住んでくださいました。イエスキリストが与えられたこと、御言葉が与えられていることは何にもまさる恵みです。
神様は、御言葉を求めなさい、御言葉に飢え渇きなさいと繰り返し言ってくださっています。
「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」(イザヤ55:1)
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)
聖書における水は御言葉をあらわしています。つまりこれらの箇所で主は、御言葉を買いなさい、求めなさい、飲みなさいと言ってくださっているわけです。 買いなさいということは御言葉を求めて犠牲(時間)を払いなさいと言い換えることもできるでしょう。主は私たちが私たち自身の満たしのために生きるのではなく、御言葉を求める飢え渇きを持って歩んで欲しいと願っておられます。
そして、私たちは御霊なしには御言葉を悟れず、目の覆いが取り除かれなければ主を見れない者です。
「しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」(ルカ18:34)
ルカの福音書18章31節~33節で、イエス様はご自分の死と葬りと復活について弟子たちに話されました。しかし、上記の御言葉にもあるように、弟子たちにはその話が理解できなかったとあります。この箇所の後の35節~ 43節では盲人の話が記されています。この弟子たちが悟れなかった話と盲人の話はつながっていると信じます。
この盲人は私たちを表しており、主のことばを悟れない者の姿であると思います。私たちはこの盲人の信仰を持つ必要があります。
「彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです』と言った。」(ルカ18:41)
盲人は主が目を癒して見えるようにしてくださると信じ、イエス様の前に進みました。私たちもまず初めに自分が盲人であることを認めなければなりません。そしてこの盲人と同じ心、つまり主にあって見えるようになることを信じて、主の前に進みゆかねばなりません。
私たちは知恵と啓示の御霊の中で覆いが取られて、真理を悟ることができることを信じます。
「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)
本来はイスラエルにゆだねれていた御言葉が、今では異邦人である私たちにも与えられています。これだけでも豊かな恵みを受けている者です。 しかしそれだけに留まらず、主は御言葉を通して私たちに語り、私たちの自我や肉、汚れを明らかにし、悔い改めを通して私たちが御言葉に生きることを願っておられます。
「わたしは、 だれが死ぬのも喜ばないからだ。ー神である主の御告げーだから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32)
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、 私たちに不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:11-14)
神の恵みはイエスキリストであり、イエスキリストは御言葉です。つまり御言葉は放縦へと変えられるものではなく、神のきよさへと向かわせる力であると信じます。神の御言葉が与えられているがゆえに、私たちは御言葉を行うことができることを感謝します。
「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」(Ⅱコリント13:8)
「いま私は、あなたがたをその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)
■A:考えてみよう
今日、初めに御言葉が与えられていることを感謝しましょう。御言葉をほめたたえましょう。そして御言葉を求めて祈る中で、自分の霊的な目は盲目になっていることを認めて、特に心と目と耳に対して血潮を宣言して主の癒しを受け取りましょう(アテフ・メシュレキー神父著「イエスの血潮を宣言する祈り」22頁~27頁,45頁~53頁)。
さらに知恵と啓示の御霊を求めて、御言葉を朗読していきましょう。そして受け取った御言葉を祈りの中で解き放って宣言し、その御言葉を生活の中で実行していきましょう。神が神である証拠、御言葉そのものになっていきましょう。神様をもっと知っていきましょう!
イエス様をもっと知りたいと思い、私自身が以前からチャレンジしていることで、このマナメールを読み導きを受ける方と共に実行していきたいことがあります。それは1日1章、トーラー(モーセ5書)を読んでいくことです。もしまだトーラーの朗読をしていない方で、心がある方はぜひトーラーの朗読を共にしていきましょう。
「もしあなたがたがモーセを信じているのなから、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(ヨハネ5:46)
上記の御言葉にもあるように、イエス様ご自身がモーセの書いたこと(トーラーつまり創世記から申命記)は私のことを語っていると言っています。もちろん聖書全体がイエスキリストについて証していますが、イエス様をもっと知りたいという心を持って、イエス様について書かれ聖書の土台となっているトーラーを朗読していきましょう。
■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの愛とあわれみを感謝します。その愛ゆえに、ひとり子であるイエス様を私に与えてくださり、ありがとうございます。
御言葉なるイエス様、あなたをもっと知りたいです。あなたが与えられたことは何にも勝る喜びであり、永遠のいのちであると同時に恐れ多いことです。私が日々の生活の中で、御言葉を軽んじる心を持ち、行動していたことを赦してください。不従順という大きな罪を赦してくださって、この罪の根源を取り除いてください。御言葉を軽んじることはあなたを軽んじることです。そのような者として歩みたくありません。自分の満たし、自分はこう思うから、自分はこう考えるからという思いではなくて、御言葉は何と言っているのか、聞き方に注意を払う聞く耳を私に与えてください。
また私は自分が盲人であることを認めます。主よ、あわれんでくださって、わたしの目を見えるようにしてくださり、知恵と啓示の御霊の中で御言葉を悟らせて、あなたをもっと知ることができるようにさせてください。あなたが語られたがゆえに、真理のゆえに私は御言葉を行うことができることを感謝します。そのように主のために生きることができる人生を与えてくださり、ありがとうございます。
今日という日に御言葉を求めます。今日もあなたの御言葉におののきます。私の心を砕いて、御言葉をさらに畏れるへりくだった心へと造り変えてください。
「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。ー主の御告げーわたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:1-2)
この御言葉を自分自身に宣言し、愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 たくみ 】
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