■S:今日の聖書の言葉
哀歌5章17章15~18節

★私たちの心から、喜びは消え、踊りは喪に変わり、私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。 私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。シオンの山は荒れ果て、狐がそこを歩き回っているからです。

■O:今日のコラム
哀歌は、エルサレムの滅亡を嘆き、憂えた歌を集めているので哀歌と呼びます。哀歌は悲しみの歌です。エルサレムが敵に包囲され、消失し、荒廃してしまったことをたましいが張り裂けんばかりの悲しみをもって歌っています。しかし単なる嘆きの歌ではなく、罪を真に悔い改め、神に立ち返ることを求めた歌で、とりなしの祈り、歌とも言えるでしょう。

罪が私たちを支配している時、私たちの心の状態は、喜びが消え去り、踊りが喪に変わるような状態となるでしょう。心も病みます。私たちが真に己の罪を悲しみ、神に悔い改め、立ち返る時に、罪から離れる思いが生まれてきます。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。」(Ⅱコリント7:10)

私たちが真にみことばの前に砕かれ、その罪を悲しむ時に、それはむしろ神様を慕う熱意に変えられるのだと思います。山上の垂訓においても、

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:4)

と2番目に「悲しむ者」が出てきます。神の国の入り口は、心貧しくなり、己の罪を悲しむところから入っていくのだと思いました。しかし、悔い改めることさえ、聖霊様の助けなしにできません。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)

私たちは日々聖霊様を求めていきましょう。また、みことばを知らないと判別することができないので、みことばを読み、みことばを通して自分の心、行いを吟味しましょう。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

また、悔い改めの機会も神様に感謝しましょう。神様の愛が私たちを悔い改めへと導いてくれています。

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)

■A:考えてみよう
日々、みことばを読み、聖霊様を求め、みことばを通して自分の心を判別していただきましょう。神様の慈愛が悔い改めに導いてくださるので、悔い改められることも感謝しましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 あいこ 】

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