■S:今日の聖書の言葉
雅歌8章1節
★ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに。
ヤコブの手紙1章2~3節
★私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
■O:今日のコラム
しゃろーむ!10月17日の朝です。今日1日も、主を愛することを選び、主の御言葉を求めていきましょう。主の御国とその義とを求めていきましょう。喜び祈り感謝していきましょう。主を本当に求めていくときに、試練がやってくるからです。
僕らの人生には、だれにでも様々な試練がやってきます。そして、イエス様を信じ、愛する者だからこそ通る試練があります。僕らは、この試練を喜びとすることができます。忍耐は練られた品性を生み出し、失望に終わらない希望を生み出すからです(ローマ5:1-5参照)。
雅歌の娘は、愛する方との親しい関係を、家の中だけではなく、外でも築きたいと願っています。
1章では、「口づけしてくださったらよいのに」と受け身だった娘が、主とどんな場所でも、顔と顔を合わせて口づけをしたいと願いました。当時の文化において(今も)、外で女性が男性と親しくすることは、家族以外ではないことでした。だから、主に兄弟(長子)となってもらいたいと願ったのです。
僕らも、キリストの花嫁として、主と顔と顔を合わせて直接御言葉を聞きたいと願います。しかし、僕らの罪が邪魔をします。主が自分の中心にいないからです。また、時間や場所などによって難しいと言い訳するときがあります。イエス様を信じ愛したいと願っているのに、その親密さがない自分を見て悲しみます。
だから、イエス様は、喜んで十字架に架かってくださいました。その血潮によって、僕らがきよめられるためです。イエス様のために僕らが生きるためです。
この血潮を受け取るためには、自分自身の罪咎を知り、悔い改めていくことが必要です。主を自分の中心にお迎えし、聖霊様によって内側を造り変えて欲しいと告白していくのです。
自分自身の罪咎を知って、悔い改めていくことは、苦しいときがあります。しかし、これは試練ではありません。掘り出すときにえぐられる思いがします。しかし、主は、必ずその部分を癒してくださいます。主がきよめてくださいます。
イエス様は、僕ら以上に、花嫁の完成を待ち望んでおられます。花嫁がきよめられることを待っておられます。聖霊様もとりなしてくださっています。
イエス様を信じる信仰により、僕らは、神様の子どもとなりました。イエス様は長子として、信仰を完成されました。イエス様の信仰が、完全な救いです。天のお父さんは、子どもに対して懲らしめられます。
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」(ヘブル12:10)
イエス様は、様々な試練を通られました。イエス様は聖く、義である方なのに、迫害されました。イエス様が、十字架までの道で様々な試練を通られました。イエス様の信仰は、絶対的な天のお父さんへの信頼です。「たとえそうならなくても、従います」という信仰です。御言葉に従い、御言葉を実行することです。
聖くなる一つ一つのプロセスが試練です。信仰の試練を通して、僕らは、ますます飢え渇いて主を求めていくことができます。聖霊様を歓迎していくことができます。信仰がためされると忍耐が生じるからです。待ち望むときが必要です。忍耐しているときに、主は、様々なことを教えてくださいます。御言葉を実行する力を与えてくださいます。
「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:4)
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)
主の信仰により、完全な者となることができます。主の信仰により、いのちの冠を受けることができます。だから、今日も1日中、天のお父さんの御国とその義とを求め、主を愛し、自分を愛するように隣人を愛していきましょう。主の信仰を受け取っていきましょう。
■A:考えてみよう
神の御国とその義とを求めていきましょう。
自分の罪咎を悔い改めていきましょう。
主の信仰を受け取っていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ひろみち 】
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