■S:今日の聖書の言葉
伝道者の書7章16-18節(2コリント7章)

★あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者はこの両方を会得している。

■O:今日のコラム
正しいが正しいくなり、悪いものが悪となる、それは誰の判断に基づいているでしょうか。それは神様です。

神様がどう思っているかということを聞くことなくして、何かを判断すること、それは自分が主人となっていることの現れです。

特にクリスチャンとしての歩みが長かったり、たくさんの教えを聞いていると、神様はこうであると決めてしまったり、こうしたからこうなるなど、経験などで判断してしまうことがあるのではないでしょうか。

また、世の中の常識が私たちの考えを制限することもあると思います。

これはヨブの中に見られる姿です。
神様を自分の考え方、自分のしたこと、自分の信仰におさめてしまっていたのです。自分が正しいというものが、ヨブを縛っています。
そんなヨブに神様は

「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(ヨブ40:8)

と言われます。

そしてヨブは悔い改めます。

「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。」(ヨブ42:2-3)

私たちの理論や考えを超えて、神様は神様であることを覚えます。

人の目にとっては良いことが、時には神様の目には悪いこととなり、人の目には悪いと思うことでも、時には神様にとってよいとなるのです。全て、「私にとって」「人にとって」ではなく、「神様にとって」なのです。

今日の箇所は、なにか、世の中的に世渡り上手で、なんとなくゆるく、バランスをとっていこうというのではありません。
知恵ある者は、両極端に思えるようなAかBも知っているのです。AもBも知っていて、どちらも握ることができるのです。
どちらも握ることのできるこころで主が言われたことを握ることができる者。それが今日の箇所であり、神を恐れる者であると私は思わされました。

自分で判断できるようになることがこの世では成熟した者のように思えますが、絶えず主に聞き、主からいま語られるこころを受け取る者が神様の目にとって成熟した者なのです。

■A:考えてみよう
・自分の考え、歩み、意見、理論を義とするために、神様の罪に定めるようなことはしてないでしょうか?
 悔い改めて、こころの王座に主をお迎えしましょう。

・主が言われたことを絶えず握っていけるように、この耳を開いてくださいと祈り求めましょう。
私の耳に血潮の力を宣言します!
私をだまし混乱させる声、神の御声を聞けないように邪魔するものが破棄されます!私の耳は朝ごとに主の御声を聞きます!
この耳は主だけに開かれて、自分の肉の声、人の声を聞きません。
アーメン!(血潮のテキスト耳 参照)

■P:祈り
愛するイエス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。

【 ゆうこ 】

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