■S:今日の聖書の言葉
伝道者の書1章2節(コリント人への手紙第二1章)
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
■O:今日のコラム
栄華を極めたソロモン、神の知恵を与えられ、持っていないものは何一つない人だったのではないかと思われます。そんな彼が人生の中から見出したこと、それはこの地上のものはすべてが虚しいということでした。
伝道者の書の中では、この地上のことを「日の下」また「天の下」と表現しています。
「日の下で、 どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝1:3)、
「日の下には新しいものは一つもない。」(伝1:9b)、
「私は、 日の下で行われたすべてのわざを見たが、 なんと、 すべてがむなしいことよ。 風を追うようなものだ。 」(伝1:14)
この1章を読むだけで、どれほどこの地上のものに虚しさを感じていたのかが分かります。
先日、教会のある姉妹が、海外へ旅行をされました。その国は自然の美しいことでも有名な国なので、さぞかし感動しただろうと思い、日曜礼拝の後に「旅行はいかがでしたか?」と尋ねました。返ってきた言葉はなんと「早く教会に帰って礼拝がしたかった。」でした。その言葉は、心の底から語られていました。その姉妹は旅行も良かったが、何よりもここに帰ってきて礼拝できることが嬉しかった、と生き生きと証しされていました。
この伝道者の書を読む時、今まではこの書簡を記したソロモンのことを、「彼は捨て鉢な人で、鬱だったのだろう。それゆえに、この地上のすべてが虚しく、絶望的に感じていたのだろう。」と思っていました。けれども、今日のこの箇所を読んだ時に、先程の姉妹の言葉が思い出されたのです。
何においても、最上を知るなら、それに準ずるものでは満足することがなかなか出来ません。
同じように、天にあるものを思う時、そして天にあるものを知ってしまうなら、この地上の何にも価値を見出すことはできません。礼拝する中で触れる主の臨在、主との交わりという味わいを知る者にとって、この地上の何か、たといそれがどんなに高価であっても、どんなに美しいとされるものであっても、その味わいにまさるものを見つけることは出来ず、この世のすべてが色褪せて見えるのではないかと感じます。
なんであれ、朽ちていくこの地上のものを追うならば、それを得た後にやって来るのは虚しさです。ソロモンは、この地上に絶望していたのではなく、何にも増して天にあるものを切望していたのではないでしょうか。天で受けるものの前味を、主の臨在の甘みを、彼は知ってしまったのでしょう。それゆえに、「地上にあるものでは満足出来ない。この地上のものはすべて、はかなくて虚しい。」と断言できたのではないでしょうか。
聖書の中で、天の味わいを体験した他の人物たちも次のように語っています。
「あなたがたは、 地上のものを思わず、 天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:2)
「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27:4)
「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」(詩篇73:25)
詩篇34:8は
「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」
とありますが、私は英語の表現がとても好きです。
“O taste and see that the LORD is good.”
主がどれほどに素晴らしい方なのか、それを追求し続ける者でありたいと願います。言葉で語りつくすことが出来ない主の素晴らしさ、美しさ、麗しさ、偉大ささ、壮大さ、きよさ…etcを、私たちは共に味わい、見つめ、そしてそれを更に追い求め続ける者となっていきたいと願います。
■A:考えてみよう
この地上のものに魅了されてしまうでしょうか?地上に心を奪われてしまって、なかなかそこから目をそらすことが出来ないでしょうか?それならば、是非、主の臨在を求めてましょう。
この世の事柄から自分を切り離す時間を意志を持って確保し、この世のものでお腹が一杯になってしまう前に、祈りによって主と交わる時間をとり、主を味わい、主の御言葉を食べる時間を確保しましょう。
そうするならば、私たちは主の臨在のその甘味を知り「もう一度それが欲しい!それに代わるものは、この地上には主の他に見出すことが出来ない!」という、ソロモンと同じ渇望を持つ者となることでしょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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