■S:今日の聖書の言葉
ルカの福音書19章1節 
★それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。

■O:今日のコラム
私はある牧師先生の話を聞いて気づかされたことがありました。
その先生は御言葉なるイエス様と出会う以前は、「天国で永遠に賛美するのは大変だ、聖書は読んでも難しくて意味が分からない」、そのように言っていたそうです。しかし先生が御言葉なるイエス様と出会った後、はっきりとメッセージの中で語ったことは、「もし私たち人間が、聖書を自分が主人公として読んで、主を主人公として読まないならば、人は絶対に救われない。」という内容だったそうです。

このことを聞いたとき、私の中に刺さるものがあり、自分のために、自分を自分をという聖書の読み方をしていたと思わされ、悔い改めました。

私たちはまさにイエス様が「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5章39節)と言われた通り、御言葉を読むときに主ご自身を見出すべきです。私は主が何を成して、主がご自身について語っておられること、また何の目的をもって誰に対して言われているのかを覚えて、日々の朗読に励んでいく者でありたいと願います。

御言葉を読むときにこの「主が主人公」という視点を持つことは重要なことで、今日の箇所もこのことをもって朗読していきたいと思います。

今日の箇所では、イエス様がザアカイに対してどのようなことを行い、どのような言葉をかけられたかについて着目したいと思います。イエス様はルカ19章1節にも書かれている通り、エリコに入られて、町を通られました。エリコは聖書では約束を受けることを阻む壁・障害となっているものであり(ヨシュア記6章1節)、また世の象徴として捉えることのできる場所と概念です(アテフ神父著書、「イエスの血潮を宣言する祈り」108頁後注1参照)。

つまりここでイエス様がエリコに入られるということは、そこには成就されるべき約束があったと言えるでしょう。イエス様は「失われた人を捜して」(ルカ19章10節)、人々が「『あの方は罪人のところに行って客となられた』」と言ったように、 世であるエリコに失われた者を捜し求めて行かれたことが分かります。

ではイエス様はエリコで取税人であるザアカイに何をしたのでしょうか。

「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』」(ルカ19章5節)というように、主はザアカイにただ言葉を発せられました。

黙示録3章19節~20節には、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。

神は愛するがゆえに、一人の人が悔い改め、主との親密な交わり、また主が統治する道を歩んで欲しいと願っておられます。ここで重要なことは、主の声を聞いて従うかどうかです。

ところでみなさんはザアカイという名前の意味をご存知でしょうか。なんとザアカイという名前の意味は「pure」という意味で、「pure」というのは「純粋な、潔白な、清純な」という意味です。意外ではないでしょうか。

偏見ですが、私は取税人のかしらであるザアカイの名前はきっと、「ずる賢い、騙す」などの意味だろうと思っていました。しかしそれとは正反対の意味を持つ名前がザアカイでした。確かに、ルカ19章3節には、「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、」、ルカ19章6節では、「急いで降りて来て、」と書かれている通り、純粋な性質を持つ彼の姿が記されています。

ザアカイの名前の意味を踏まえて、ルカ19章3節を読んだ時、私の中に「…あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。…」(雅歌4章1節)と「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…」(ヘブル12章2節)という御言葉が上ってきました。私の持つべき心、持つべき目はただ主を探し求めるところにあると思いました。

またザアカイはルカ19章6節にあるように、「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」イエス様の言葉を喜んで、イエス様を迎え入れた者でした。そのように私も御言葉を喜んで受け入れる者でありたいと願います。それができるのは、主の愛を知っているからこそであると信じます。

最もザアカイの変化があらわされている箇所は「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」(ルカ19章8節)です。

イエス様は父の御心をあらわすため、従順をもってエリコという世に来られました。そしてご自身を受け入れる者の家に入られました。主はわたしたちが罪人であったときに、十字架の上で死なれたことによって、人に対する愛を明らかにしておられます(ローマ5章8節参照)。つまり最初に行動されたの神様です。御言葉にも、「すべてのことが、神から発し、」(ローマ11章36節)と書かれている通りです。

そしてその神であるイエスキリストを喜んで迎え入れた家の主、ザアカイは悔い改めて、実際的な悔い改めの実として財産の半分を施しのために用い、また残りの財産を用いて騙し取った者へ四倍にして返していきました。

■A:考えてみよう
ザアカイに起こったことは何でしょうか。
イエス様が来られ、彼に言葉を発し、彼の家に主なるイエスキリストご自身が来られたということです。

聖書には、

「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2章11節~14節)

とあります。
神の恵みとは、イエスキリストのことであり、この「恵み」なるお方イエスキリストがまずご自身を世に対して明らかに現しました。このお方と出会うとき、私たちは自分の努力によってではなく、主が主のために、主の方法で私たちを聖なる者としてくださいます。この「恵み」なるお方が現れたことこそ、すべての源です。

まさにザアカイに起こったことはこの御言葉の通りではないでしょうか。恵みなるイエス様が彼に現れて、言葉を発せられました。御言葉を見る限り、悔い改めるように言ったとか何か説教をしたとは書かれていません。しかしザアカイは悔い改めの祈りと自らのやるべきことをはっきりと宣言しました。なぜでしょうか。

それは真実な主が家に来られたことにあると思います。モーセは燃える柴をみて、聖なる恐れを抱き、自分の履き物を脱ぎました。それは聖なるお方へのモーセの心のあらわれだったわけです。

同様に私たちも今日、愛である主ご自身を歓迎し、主との交わり(朗読、祈り)、またその御前に出ることを選択して、主ご自身によって触れられていくことで、従順へと進む者であろうではありませんか。

そして自分自身に十字架が必要であることを告白し、主に愛され、主を愛する者として悔い改めといのちの行いに進みましょう。

■P:祈り
天のお父さん、愛するイエス様、助け主なる聖霊様、今日もあなたの御名をほめたたえます。あなたの栄光があがめられますように。
主よ、私は御言葉を読むとき、自分のために御言葉を読み、自分のために物事を考えて、自分を主人公にしていたことを認めます。また自分の益や満足のためにしていた心の動機や言動があったことに気づかされました。それらの罪を認め、悔い改めます。方向転換させてください。主よ、あなたがすべての源であり、すべての初めなるお方であることを宣言します。
今日も注がれているあなたの愛を受け取ります。あなたのために、あなたが成したいこと、知ってほしいこと、現したいことを見させ、また体験させてください。御言葉を読む時、その御言葉からイエス様、あなたを見出し、あなたと出会うことができますように。

愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 たくみ 】

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