■S:今日の聖書の言葉
ルカの福音書15章7節
★あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
■O:今日のコラム
ルカの福音書15章には有名な放蕩息子の話しを含む三つの話しが記されています。その内容には同じテーマがあり「失われたものが見いだされる」ことについて記されています。また、この15章は主イエスの元に罪人と呼ばれる者たちが喜んで集まるのを見て、ねたみの思いを持ったパリサイ人たちのつぶやきから始まります。
その中で主イエスは失われた一匹の羊の話しをされました。ここには「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」という表現が出てきますが、これは原語によると「悔い改めることの出来ない九十九人」と訳すことが出来ます。
聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:19)と記されているように、悔い改める必要のない人は一人もいません。しかし、私たちが自分を「あの人よりもまだましだ。自分はそんなに悪いこともしていないし、悔い改める必要はない。」と思う時、実はそれは「悔い改めることの出来ない」心の状態にあるのです。
多くの人々は悔い改めとは、自己憐憫に陥り惨めな気持ちになることだと考えます。それは悔い改めの間違った認識による故です。
悔い改めとは方向転換することであり、自分中心の生き方から神中心の生き方へと立ち返ることです。別の表現で言うなら御言葉の基準に歩み、神の国の民として生きることです。そこには大きな自由と喜びが伴います。
悔い改めとは神の厳しい裁きの故ではなく、神の偉大な愛と憐れみ故に導かれるものです。
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)
黙示録3章に登場するラオデキヤの教会は終わりの時代の教会の姿と言えます。あらゆることにおいて成功し、豊かになり、繁栄していますが、最も大切な主イエスご自身との親密な交わりを失い、霊的には盲目で貧しく惨めな状態にあると主は指摘しておられます。ラオデキヤの教会にイエス様は、
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:19)
と言われています。ここでも、主は私たちを熱烈に愛するが故に叱り、懲らしめ、熱心な悔い改めへと導かれることを願っておられます。悔い改めは主との愛の関係の回復へと繋がります。
この終わりの時代に聖なるキリストの花嫁として生きる為に主の豊かなあわれみと、熱烈な愛の故に「熱心な悔い改めの霊」が私の内に注がれることを共に祈り求めましょう。
■A:考えてみよう
主の御前に正直に「主よ。私は自分では自分の罪も認識出来ず、悔い改めることも出来ない者です。どうかあなたの豊かな慈愛とあわれみを注いで下さい。」と祈る時、御霊なる主は今日も新たに私たちを悔い改めへと導き、主ご自身の似姿へと栄光から栄光へと日々造り変え続けてくださいます。
全ては主の恵みによります。我らの素晴らしい主に栄光がありますように。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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