■S:今日の聖書の言葉
ルカの福音書13章23~24節

★すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」

■O:今日のコラム
私たちクリスチャンは神の恵みによって救いを頂きました。私たちの努力によらず、一方的な神の恵みによるのです。次の箇所にこのようにあるからです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)

この箇所を見ると「救い」は確かに神からの賜物であることがわかります。それでは今日の箇所を見てみましょう。

「すると、『主よ。救われる者は少ないのですか』と言う人があった。イエスは、人々に言われた。『努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。』」(ルカ13章23-24節)

イエス様は努力して「狭い門」から入るようにと言っています。先ほどの箇所では救いは恵みであり、神の賜物であると語っています。しかし、この箇所では救いには「努力」が必要であると言っているのです。

二つの箇所を比べると矛盾しているように思えます。どういうことでしょうか?

このことを理解するためには「救いの達成」の概念を知る必要があります。パウロはピリピ人への手紙でこのように言っています。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2:12)

この箇所からわかるように、私たちが受けた「救い」は成長し、最終的には達成されることがわかります。

最初、私たちが恵みによって受けた救いは「種」のようなものです。私たちは残りの人生を使い、この救いの種を豊かに成長させなければならないのです。

そのためには「努力」が必要であるとイエス様は語っているのです。イエス様は種蒔きのたとえの結論としてこのように語っています。

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」」(マルコ4:20)

地は私たちの心の状態のことを言っています。この箇所にあるように、私たちの心の状態が「良い地」になる必要があります。私たちの心が「良い地」になるならば、豊かに実を実らせ、救いは成長し達成されます。

「良い地」にする作業は簡単なことではありません。努力が必要になってきます。堅い地を耕し、雑草を抜き、石や岩を取り除く作業が発生します。この作業はまさに私たちが「悔い改め」により罪を取り除く作業を意味します。

悔い改めによって、私たちの心が柔らかくなり、神のことばが成長する土壌となるのです。柔らかな土壌にすることがゴールではありません。柔らかくなった心の土壌に「御言葉の種」を蒔く必要があるのです。

ですから、悔い改めた後に、私たちの心にたくさん「神のことば」を蒔き続けましょう。私たちが御言葉をひたすら朗読して心に御言葉を蓄える作業が、種を蒔く作業なのです。

さらに、私たちが豊かな実を結ぶ為には、「御言葉に従順する」という作業が必要になります。心に蓄えられた御言葉をしっかりと守り行うときに、豊かな実を結ぶことになるからです。

「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8:15)

御言葉を実行することは自分の力ではできません。だからこそ聖霊様の力が必要です。聖霊様により頼み、神に祈り求めるのです。

最終的に良い実を結ぶに至るまでには、今までの過程を通らなければならないのです。
良い実を結ぶとは、すなわち神の国が私たちの心の内に拡大することを意味します。

「また言われた。『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。』」(マルコ4:26-29)

神の国は1日にして成りません。時間が掛かります。非常に地味で地道な作業を通らなければならないのです。それは誰にも評価されない作業です。それは狭き門を通るに等しいことなのです。

しかし、神の御言葉に忠実に歩むならば、必ず時がやって来て、収穫の時を迎えることになります。私たちの心の内に豊かに実った御霊の実を、人々に食べさせることが出来るようになり、私たちを通して人々に命を与えることになるのです。こうして人々は生きることになります。クリスチャンはこのようにして、神の国をこの地に解き放つのです。

今の終わりの時代、いよいよ御言葉に生きるのが困難な時代がやって来ています。人々は狭き門を通るより、大きく広い門を通ることを好むようになります。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

イエス様ご自身も狭き門を通る歩みをしました。それは、十字架の道のことです。イエス様は自ら十字架という狭き道を行きました。私たちもイエス様の弟子であるならば、イエス様と同じ歩みをしなければなりません。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マタイ16:24)

私たち一人一人に与えられている十字架の道を行きましょう。大きく広い門とは、十字架の道を歩まない生き方のことです。それは、自分に死ぬことを選ばず、悔い改めることをせずに、自分中心に生きることを意味します。神の国のことに関心が無く、その心は絶えず地上のことで一杯になっている状態のことです。

本当に今の時代は自分に死ぬことが困難な時代です。なぜなら、あらゆる惑わしや、この世の思い煩い、富の惑わしが満ち溢れているからです。だからこそ、忍耐を持って目を覚まし、神の国を求め、御言葉に生きて行きましょう。そして、御言葉に対する飢え渇きを切に求めて行きましょう。

狭き門を通る歩みをするならば、必ず私たちもイエス様と同じように、十字架の復活の力を経験するようになります。私たち一人一人を通して神の国が大胆にこの地に解き放たれて行くことを宣言します。

今日も1日、皆様の上にイエス様の豊かな恵みがありますように。

■A:考えてみよう
日々の生活を振り返り、狭い門を通る歩みをしているかどうか吟味してみましょう。
今一度、神の国とはどのようなものであるのか考えてみましょう。

■P:祈り

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 あきひろ 】

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3 個のコメント


  1. 足立悦子 より:

    はじめまして
    質問ですが、
    日頃からある疑問をもっていてこのサイトにたどりつきました。
    わたしはクリスチャンで伝道集会でイエスキリストを救い主だと受け入れました。
    キリスト教のサイトを見ていて一度救いを受けると命の書に名が記されその救いは永久に保障されると記してありますが、救いを受けても罪を犯し続け堕落すればその名が命の書から消されることもあるのでしょうか。

    • 管理者 より:

      お問い合わせありがとうございます。
      このことは神の神秘でもあるかもしれませんが、下記のみことばを黙想されてみてください。

      この御言葉を黙想することを勧めてみて下さい。

      (ヘブル人への手紙6:4-6)

      一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
      神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
      しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

      (ペテロの手紙第二 2:20-22)

      主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
      義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
      彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。

  2. 足立悦子 より:

    ご丁寧な返信ありがとうございます。

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