■S:今日の聖書の言葉
ゼデキヤは二十一歳で王となり、 エルサレムで十一年間、 王であった。 彼はその神、 【主】の目の前に悪を行い、 【主】のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。(歴代誌 第二 36章11,12節)
ところが、 彼らは神の使者たちを笑いものにし、 そのみことばを侮り、 その預言者たちをばかにしたので、 ついに、 【主】の激しい憤りが、 その民に対して積み重ねられ、 もはや、 いやされることがないまでになった。(歴代誌 第二 36章16節)
■O:今日のコラム
長かった歴代誌も、今日で最後になります。様々な王様を見てきたと思いますが、今日の王、ゼデキヤはエルサレムで最後の王になります。その年若干21歳。最後くらい、良い王様で終わるかと思いきや、かなり残念な結果になっています。
ゼデキヤを連れてきたのはネブカデネザル王ですが、13節にはこのように書かれています。
「彼はまた、 ネブカデネザルが、 彼に、 神にかけて誓わせたにもかかわらず、 この王に反逆した。 このように、 彼はうなじのこわい者となり、 心を閉ざして、 イスラエルの神、 【主】に立ち返らなかった。」
さらに、上の権威に立つ王に習って、続く14節にはこのように書かれています。
「そのうえ、 祭司長全員と民も、 異邦の民の、 忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、 不信に不信を重ね、 主がエルサレムで聖別された【主】の宮を汚した。」
それに対してなんとかしようとした神様は、預言者を何人もゼデキヤ王の元に遣わします。
「彼らの父祖の神、 【主】は、 彼らのもとに、 使者たちを遣わし、 早くからしきりに使いを遣わされた。 それは、 ご自分の民と、 ご自分の御住まいをあわれまれたからである。」(15節)
なんという神の愛でしょうか。私たちの神様は慈しみ深く、恵むのに早く怒るのに遅い神であることを感謝します。この哀れみの期間に悔い改めないなら、何が起こるでしょうか。
「ところが、 彼らは神の使者たちを笑いものにし、 そのみことばを侮り、 その預言者たちをばかにしたので、 ついに、 【主】の激しい憤りが、 その民に対して積み重ねられ、 もはや、 いやされることがないまでになった。」(16節)
主が愛する人々をいやすことを止められてしまいます。
なぜそのような事になってしまったのでしょうか。その鍵は終わりの時代にやってくる「みことばのききん」にあります。
「見よ。 その日が来る。−−神である主の御告げ−− その日、 わたしは、 この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、 【主】のことばを聞くことのききんである。」(アモス書8:11)
事実、私たちの持っている聖書では歴代史第二は旧約聖書の中間あたりに位置しますが、ユダヤ人が使っている旧約聖書「タナク」の中では一番最後に歴代史第二が来ています。
彼らの聖書は内容こそ私たちと同じですが、書簡の並びが違っています。ユダヤ人の概念の中に「歴史書」というものはないそうです。この歴代史第二は「諸書」というところに分類されています。つまり、律法(トーラー)の実践とでも言うことができましょうか。
私たち異邦人に向けられた旧約聖書の最期はマラキ書です。そこでは、父の心が子に、子の心が父に向けられることが書かれています。それから暗黒期を経て、まことの王であられるイエス様が来られます。
一方、ユダヤ人の中ではこの歴代史第二からマタイの福音書に続くのが自然な流れでしょう。
これは一体何を意味しているのでしょうか。
異邦人に必要なのは父なる神との回復であり、ユダヤ人にとって必要なのはまことの王であるということです。
人が作り出した王様は、中には良い王様もいましたが、多くは良くない王様でした。それも、最期の王は最悪と思える形で終わり、結果、バビロン捕囚へと向かっていきます。
イエス様が来られたときも、いつもイスラエルの民が願うのは国を再建する力ある王です。しかし、人が選びだした王には限界があります。
霊的なバビロン捕囚から開放することができる唯一まことの王はイエス・キリスト以外におられません。
このお方こそ唯一恐れられる方であります。
ゼデキヤ王は16節で「みことばを侮った」とあります。
ヨハネの福音書1:1には「ことばは神である」と書かれていますので、ゼデキヤ王は神を侮ったということになります。神を恐れず、自分が神のようになる。これを自己中心と良い、罪の根源になります。
神を恐れ敬うこと。これが私たちが一生をかけて達成していく目標です。
■A:考えてみよう
様々な王様を見てきて、皆さんは何を学んだでしょうか。
「ああ、また悪い王様だ。私はこのような王様でなくて良かった。」と思っているでしょうか。
悪い王様の性質は私たちの内に存在しています。
人を見た時に「あの人のここが気に入らない」と感じるなら、問題はその相手にあるのではなく、私たちの内にあります。自分の問題が鏡のように相手に写っているだけなのです。
「また、 なぜあなたは、 兄弟の目の中のちりに目をつけるが、 自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」(マタイ7:3)
ですから、人の嫌な所が見えたなら、まず、自分の罪を悔い改めることをしましょう。みことばと照らし合わせて、「みことばを侮ってないだろうか。みことばからずれた歩みをしていないだろうか」と絶えず自分をみことばに従わせていく必要があります。
これが悔い改めの生き方であり、また主を恐れるという生き方です。
ソロモン王はその事を彼の晩年、このような一言で表現しています。
「結局のところ、 もうすべてが聞かされていることだ。 神を恐れよ。 神の命令を守れ。 これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)
私たちは「選ばれた種族、王である祭司」と呼ばれています。
「しかし、 あなたがたは、 選ばれた種族、 王である祭司、 聖なる国民、 神の所有とされた民です。 」(1ペテロ2:9a)
それであれば、列王記・歴代史など、様々なイスラエルの王から学ぶ必要があります。失敗した王からは「こうすれば主を悲しい思いにさせてしまう」ということを学び、良い王様からは「こうすれば主を喜ばせることができる」ということを学ぶことが出来るでしょう。
終わりの時代に力強く立つ王である祭司である私たちの内に、みことばを愛し、恐れ、敬う心が益々立て上げられていきますように。
■P:祈り
愛する天のお父さん。あなたが私を名前を呼んで、召し出してくださったことを感謝します。それなのに時にはあなたのことを忘れてしまい、自分勝手に振る舞ってしまうことがあることを認め、告白します。みことばの基準に自分を合わせていく努力を怠ってしまうことがあることを赦してください。
みことばはみことば、実生活は実生活と、神の国とこの地での歩みを分けて考えていたことを悔い改めます。
2テモテ3:16には
「聖書はすべて、 神の霊感によるもので、 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
とあります。それなのに、自分が「したいことがあるから」という理由で神の戒めを後回しにしてきたことが思い起こされ、恥ずかしくてなりません。
ローマ12:2には
「この世と調子を合わせてはいけません。 いや、 むしろ、 神のみこころは何か、 すなわち、 何が良いことで、 神に受け入れられ、 完全であるのかをわきまえ知るために、 心の一新によって自分を変えなさい。」
とあります。
主よ、このみことばのように私を主が任命された王である祭司としてふさわしい歩みをする事が出来るように助けてください。神の姿に似たもの私の内なる人を作り変えることができるのはイエス様以外おられません。
私の全人生をかけて「主を恐れる」ということが何かを学び、それを実践していくことができるように助けてください。
私をいつも見守り、いのちをかけて愛し続けて下さる最愛の花婿、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】
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