■S:今日の聖書の言葉
歴代誌第二7章16節

★今、 わたしは、 とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。 わたしの目とわたしの心は、 いつもそこにある。

■O:今日のコラム
ダビデ王の夢であった主の住まわれる所、神殿がいよいよダビデの息子、ソロモンの手によって完成します。その事を神様も王も、祭司も、人々も、全ての者が喜びました。

この出来事を十字架を通して見るとき、何が見えてくるでしょうか。パウロは神殿に関して、このように言っています。

「あなたがたは神の神殿であり、 神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 もし、 だれかが神の神殿をこわすなら、 神がその人を滅ぼされます。 神の神殿は聖なるものだからです。 あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:16-17)

私たちが神の神殿です。神殿の最も奥深い所には何があったでしょうか。神の契約の箱と、主の御臨在がありました。

「それから、 天にある、 神の神殿が開かれた。 神殿の中に、 契約の箱が見えた。 また、 いなずま、 声、 雷鳴、 地震が起こり、 大きな雹が降った。」(黙示録11:19)

私たち自身が神殿であるのであれば、その中心に神の契約の箱と主のご臨在、つまり、みことばが生きていなければなりません。みことばは、心の中に刻まれるものです。

しかし、刻まれたままではみことばは封印された状態になっています。これを解かなければなりません。私たちが心に刻まれたみことばにアーメンと応答し、信仰をもって宣言する時、私たちの口を通してみことばが生きたものとなります。

もし、神殿の中心に神ご自身のご臨在が無ければ、それは形だけのものになってしまいます。私たちが神殿であるなら、その中心は神様ご自身、つまり、みことばである必要があります。私たちの神殿の中心にみことばが最も大切なものとして置かれること、これこそがリバイバルです。

今日のみことばの箇所には、「この宮を主ご自身が選んでくださった」と書かれています。主は私たちを召してくださっているのです。私たちの状況や環境にかかわらず、主は私たちをいつまでも呼び続けてくださっています。

しかし、呼ばれて終わりではありません。次にあるのは聖別です。「聖め分けられる」というのが聖別の意味です。何から分けられるのでしょうか。神に属さないものからです。つまり、みことばの基準に沿わないものからの聖別です。

そのためには、何が聖で、何が聖でないかを知る必要があります。その基準は唯一、みことばのみです。だから、私たちはみことばを心に刻む必要があるのです。刻まれたみことばが私たちを守ってくださいます。

どうして聖別される必要があるのでしょうか。それは、主ご自身の聖なるお名前を置かれるためです。聖書の中には、200、300、あるいはそれ以上の神様のお名前があると言われています。その中でもすべての名にまさるお名前は「イエス・キリスト」です。

「それゆえ神は、 この方を高く上げて、 すべての名にまさる名をお与えになりました。 」(ピリピ2:9)

最も聖であられる方のお名前を置く場所もまた聖でなければなりません。

「だから、 あなたがたは、 天の父が完全なように、 完全でありなさい。」(マタイ5:48)

私たちが聖められるなら、主はそこに全ての名にまさるお名前を置いてくださいます。神のひとり子であるイエス・キリストのお名前があるなら、父の心はそこにくぎづけになるはずです。ですから、今日のみことばには、「わたしの目とわたしの心は、 いつもそこにある。」と書かれているのです。

私たちの内にみことばが回復し、いのちの泉が湧き上がるなら、私たちの内に喜びが溢れてくるはずです。それを見て、周りの人も喜び、また、神様も喜んでくださるはずです。まるで、今日の聖書の箇所でソロモンの神殿が回復したときのように。

私たちがイエス様に似たものとして、神と人とに愛される秘訣、それは私たちの内にみことばの回復があることです。共にみことばを愛していきましょう。

「イエスはますます知恵が進み、 背たけも大きくなり、 神と人とに愛された。」(ルカ2:52)

■A:考えてみよう
申命記6書5節には「心を尽くし、 精神を尽くし、 力を尽くして、 あなたの神、 【主】を愛しなさい。」とあります。では、具体的に「主を愛する」とは、どのようなことなのでしょうか。
それは、私たちの内にどれほどのみことばが刻まれているかによって、はかることができるのではないでしょうか。なぜなら、みことばは神ご自身だからです。

「初めに、 ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

口では「神様を愛しています」と言っても、実際、みことばを覚えることができていないのであれば、本当に神様を愛していると言えるでしょうか。みことばは心に書かれる以上に、「刻まれる」必要があります。刻むということは、書くことよりも労力が必要でしょう。しかし、一度刻まれたなら、なかなか消すことはできません。

地道な取り組みのように思えるでしょうが、一日1節覚えるのであれば、1年で365節、10年で実に3650節覚えることができます。これは、新約聖書の約半分の分量にあたります。

テレビより、インターネットやゲームより、あるいは食事よりも、みことばの方が大切であってほしいと願います。そのためには、あらゆるものを脇に置き、一日1節でいいので心に刻んでいこうではありませんか。(どこからみことばを刻むことを始めて良いか分からないという方は、こちらから箴言の「ハヤ」というものをお求めいただけます。https://artofgod.jp/?pid=119101151)

その他、好きなみことばでも構いません。とにかく、自分の心の中心にいつもみことばを置くことを心がけましょう。そうするなら私たちは聖められ、主の目と心はいつも私たちと共にあります。

■P:祈り
天のお父さん、今まで私が神ご自身であるみことばをあまりにも軽く扱い、ないがしろにしてきたことを告白します。みことばを第一とする生活ができていなかったことで、神様からの語りかけを聞くことができず、愚かな選択をし続け、私も私の家系も苦しめられていたことを悔い改めます。

私にはみことばが必要であり、みことば無しでは生きていくことができないという悟りを与えてください。みことばが何よりも私の喜びであるということを教えてください。

神様のみことばが私の中に回復し、神にも人にも愛される者として私を造り変えてください。イエス様のいのちである血潮を注いでください。御霊により、私を造り変えてください。

私を呼び続け、いのちをかけて愛してくださるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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