■S:今日の聖書の言葉
第二列王記7章2節

『しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。 」そこで、 彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」』

第二列王記8章2節

「そこで、この女は神の人のことばに従って出発し、家族の者を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。」

■O:今日のコラム
聖書は御言葉の一部分を深く掘り下げるようにして読むことと、また聖書から少し顔を離して聖書全体を見ることの両方が必要です。
聖書全体を見る時に、聖書に出てくるすべての人物は2種類のタイプに分けることが出来るということが見えてきます。2つの種類。それは、神を信じ神に従う者と、神を信ぜず神に従わない者です。

6章の後半から見ることが出来ますが、サマリヤは大飢饉におちいり、それは人が自分の子どもを食べるほどにひどいものでした。その上アラムの王が全軍を率いてサマリヤの街を包囲し、その大飢饉に追い打ちをかけました。このことを見て、イスラエルの王の使者は次のように嘆きました。

「見よ。 これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。」(第二列王記6:33)

『これは神様からの災いだ〜』と使者が単に悲観的に口走った言葉だったのでしょうか。

申命記28章には次のように記されています。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」(申命記28:15) 

「あなたは、 包囲と、 敵がもたらす窮乏とのために、 あなたの身から生まれた者、 あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。」(申命記28:53)

神に従わない者にはどのようなことが起こるか、ということがすでに警告されていました。それゆえにこの使者は、『神が前もって語られていた戒めの通りになった』と語ったに過ぎませんでした。

申命記28章の前半は、「イエスの血潮を宣言する祈り」の2番の中にもあり、ある人にとってはとても馴染みのある箇所ではないかと思います。前半は

「神の御声に聞き従うなら、また、守り行うなら、次のような祝福があなたに及ぶ」

という、心が踊るような真実が書かれています。けれども、私たちは申命記28章の後半(15節以降)も知らなければなりません。

「もし神の御声に聞き従わないなら、また守り行わないなら、次のような呪いがあなたに及ぶ」

と警告されているのです。そしてそれは『御声に聞き従うものに祝福が及ぶ』ということが真実であるのと同じ程に真実な言葉なのです。

神の御声に聞き従わなかったイスラエルの民。敵に包囲され、飢饉が起こり、子どもの肉を食べるほどに悲惨な状況。はたして、この街には申命記で神が語られた通りのことが起きていたのです。

今日の箇所である7章に出てくる王の侍従。神の人であるエリシャが『主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。

「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。」』(第二列王記7:1)

と語った時に、この侍従は「食べるものがないこのご時世に、上等な小麦粉が安売りされるようになる?そんなわけない…」と信じませんでした。

この侍従を、聖書に出てくる2つのタイプで見るならば、どちらに属するでしょうか?神を信ぜず、従わない者に属します。そして、彼の結末はどのようなものだったでしょうか?

「民が門で彼を踏みつけたので、 彼は死んだ。」(第二列王記7:20)

神の語られたことを信じなかった侍従に対し、エリシャが

「確かに、 あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」

と語ったとおりになりました。

8章に出てくるやもめは、エリシャに

「あなたは家族の者たちと旅に立ち、あなたがとどまっていたい所に、しばらくとどまっていなさい。 主がききんを起こされたので、この国は七年間、ききんに見舞われるから。」

と言われた言葉を信じて、それに従いました。その結果どうなったか、是非ご自分で聖書を開いて確かめてみて下さい。

聖書の語る「信じる」という言葉には「従う」こともセットであることが分かります。もし、私たちが御言葉に従う生き方をしていないのであれば、それは聖書の中では「信じる」というカテゴリーに入りません。

どんなリレーも、それぞれのチームの‘バトン’を持っていなければ、たといゴールしたとしても、それはゴールにみなされません。それを知らずにゴールに辿り着いてから、「バトンをもってないと駄目だった!」と知るのでは遅いのです。こんな悲しいことはありません。同じように、「神を信じること」には「神のみことばに従って守り行う」というバトンがなければなりません。

私たちが、神を信じ、神の御言葉を信じ、それに従い、また守り行う時にこそ、私たちが「信じている」ということがらが、目に見える形となります。私たちの「信仰」が、私たちの生き方となって、生活に現れてきます。それこそがまさに、世の光、地の塩としての生き方ではないでしょうか。

自分の力でみことばに生きることは出来ません。自分の力で山上の垂訓(マタイ5章〜7章)を生きることは出来ません。だからこそ、主は助け手として私たちに御霊を与えて下さいました。神を信じて、みことばに従う者、それを守り行う者となることが出来るよう、聖霊様を今日も尊び、歓迎していきましょう。

■A:考えてみよう
「御言葉の通りに生きたい!」と渇望する人は、そのために必要な御霊の助けにも飢え乾きます。けれども、「御言葉のとおりに生きるなんて所詮ムリ。」もしくは、「そこそこ自分はみことばに生きているから今のままで大丈夫!」と思う人は、さほど御霊を必要としません。私たちはどちらでしょうか?

■P:祈り
主よ。あなたの御言葉をありがとうございます。私たちが進むべき道を、御言葉をもって明確に示して下さっていることをありがとうございます。御言葉は真実であり、祝福の原則、呪いの原則を御言葉を通して知ることが出来ることを感謝します。あなたの御心にかなう歩みがしたいです。御言葉に生きる者になりたいです。自分の弱い肉の力では、到底そのような生き方が出来ないことを認め、主よ、あなたに明け渡します。聖霊様を尊びます。聖霊様、自分の人生の一部分でしかあなたを必要としていなかったことを赦してください。私の歩みのすべてのうちに、聖霊様あなたを歓迎します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

カテゴリー: マナメール

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