■S:今日の聖書の言葉
エゼキエル書15章2,8節
★ 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。
★ 彼らがわたしに不信を重ねたので、わたしはこの地を荒れ果てさせる。―神である主の御告げ―
マタイの福音書15章3節
★ そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
■O:今日のコラム
しゃろーむ!5月16日の朝です。今日1日も主を求め、主の元にとどまりましょう。主に目を向けていきましょう。僕らは、自己中心ではなく神様のために生きることができるからです。
ぶどうの木は、「つる」です。「つる」の木は、他の木に巻き付いたり寄り添ったりすることで上に伸びたり、地を這って伸びていきます。幹は建築材になるスギやヒノキなどのように太く長くなりません。また、ぶどうが実を結ぶためには、つるを整えたり、とても手間がかかります。だから、森の木立ちの中では、品種にもよりますが、なかなか実を結ばないのです。
主は、ぶどうの木がぶどう園ではなく、森の木立の中にあっては良い実を結べないのだと言っています。ぶどうの木は、実を結ぶことができなければ、何かを作るための材料とはならず、たきぎとして燃やされるしかないのです。幹が太くないので、たきぎとしても、長く燃えることができません。(現在は、つるを使ってカゴバックを作ったりしていることもありますが。)
では、どうしたら実を結ぶことができるのか。それは、優れた農夫の手によって栽培してもらうことです。それは、ぶどうの木がぶどうの木として正しく生長するためなのです。そして、正しい幹につながり、多くの実を結ぶことで、農夫が栄光を受けるのです。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父はぶどう園の農夫です。 父は、実のならない枝をみな切り落とし、実のなる枝はもっとたくさんなるように、余分な枝を整理なさるのです。 父は、すでにあなたがたの枝を整理し、きれいに手入れをすまされたのです。 ですから、わたしのうちに生きるよう心がけなさい。またわたしが、あなたがたのうちに生きられるようにしなさい。
枝は幹につながっていなければ、実を結べないでしょう。同じようにあなたがたも、わたしから離れたら、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝です。
人がわたしのうちに生き、わたしもその人のうちに生きているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては何もできません。 わたしから離れる者はだれでも、役に立たない枝のように投げ捨てられ、枯れてしまいます。最後には、ほかの枝といっしょに積み上げられ、焼かれてしまうのです。 しかし、もしわたしのうちにとどまり、わたしの命令に従うなら、何でもほしいものを求めなさい。きっとかなえられます。 わたしのほんとうの弟子となり、多くの実を結ぶことによって、父が大いにほめたたえられるのです。」(ヨハネの福音書 15:1-8 JLB https://bible.com/83/jhn.15.1-8.JLB)
僕らはどこに幹が、根があるのかが大切です。置かれた場所であっても、イエス様に結ばれることができます。様々な葛藤の中でも、イエス様につながり、イエス様の言葉を握り、イエス様ならどの様なことをするのかと考えていくことが大切なのだと思います。自分の足りなさを知り、覚えるときには、主を求め続けていきたいです。
そして、火で焼かれることは、実を結ぶために、整えられていくことです。必要なモノとそうでないモノを整理していくのです。悔い改めて、イエス様の方向へと向くことです。
僕らの内側には、肉の行いの実が結ばれて死へと向かっていました。しかし、イエス様の十字架の血潮により、天のお父さんのもとへと買い戻されました。イエス様が復活されたことで、聖霊様が僕らの内側に住んでくださるのです。僕らは、聖霊様の宮です。天のお父さんが管理し、イエス様につながることで、僕らは、聖霊様の実を結ぶ者へとなっていくことができるのです。
僕らは、すぐに自分の考えの中にとどまってしまうことがあります。だからこそ、主の元にとどまるために、主を求めていきましょう。聖霊様を歓迎し、ますます求めていきましょう。悔い改めていきましょう。イエス様の十字架の血潮と復活の勝利を宣言していきましょう。御言葉を朗読していきましょう。
■A:考えてみよう
主を求めていきましょう。聖霊様を歓迎し、ますます求めていきましょう。悔い改めていきましょう。イエス様の十字架の血潮と復活の勝利を宣言していきましょう。御言葉を朗読していきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ひろみち 】
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