■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書3章2節(エレミヤ3章)
★「悔い改めなさい。 天の御国が近づいたから。 」
■O:今日のコラム
『悔い改め」と聞いて、みなさんはどのような印象を受けるでしょうか。ある人は「嫌だ」「つらい」「苦しい」などと、ネガティブなイメージがあるかもしれません。しかし、それはサタンによって真実が隠され、惑わされていることになります。
聖書が言う本当の悔い改めは喜びに満ち、束縛から解放され、天のお父さんの家へと帰る喜びに満ちたものとなります。
悔い改めに関しては様々な角度から見ることが出来ますが、一言で言うと自分中心から神様を中心にするという事になります。
人は自分が可愛く、自分の正しさを主張します。しかし、この地に
「義人はいない。 ひとりもいない。」(
ローマ3:10)と書かれています。
私たちが普段の生活で腹が立ったり、喧嘩したり、怒ったりするのは、考えの中心に自分がいるからであり、「自分こそ正しい」という思いがあるからです。人は自分の正しさを主張するので、そこで摩擦が起こってしまいます。
しかし、この地に「義」は一つしかありません。イエス・キリスト。この御方だけが唯一の正しさです。神のことばであるみことばこそが、唯一の正しさです。
この「正しさ」に自分の基準を合わせて行くことが悔い改めです。的外れの生き方から神様の願う生き方へと歩みを変えていくことが悔い改めです。その道は天のお父さんの家へと続くものです。
このような悔い改めの道を歩むためには、自分の中から高ぶりを取り除く必要があります。今日の通読箇所に出てくる人物、バプテスマのヨハネを見ると分かります。彼は祭司の家系でしたが、美味しい食べ物を食べていたわけでもなく、いい着物をきているわけではありませんでした。
「このヨハネは、 らくだの毛の着物を着、 腰には皮の帯を締め、 その食べ物はいなごと野蜜であった。」(マタイ3:4)
高ぶった心を持っていたのでは、このような生活を荒野で送ることは出来ません。バプテスマのヨハネはこのようなシンプルな生活でただひたすらに救い主が来られるのを待ちわびていました。
私たちもヨハネのようにへりくだり、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って悔い改め、再び来られる主をお迎えする道を備えていきましょう。
■A:考えてみよう
自分の中に主に喜ばれない性質は残っていないだろうか。最も大きなものは「自己中心」というものです。
主に献身した方の証ですが、その人は一度主から離れましたが、悔い改め、再び献身者としての道を歩み始めます。そして、周りの人が驚くほどキリストの似姿に変えられていきます。しかしその矢先、その人は不治の病だということが分かります。痛みの中でもその人の周りには「イエス様の話を聞かせてください」と多くの人が集まってきます。
その人は耐えられないほどの痛みを抱えていましたが、苦痛の顔を決して人には見せず、いつも笑顔で対応していたそうです。そして、その人は若くして天に凱旋されました。後にその人に日記にはこのように書かれていたそうです。
「イエス様、私には耐え難い痛みがあります。しかし、私は『痛みを取り去って下さるように』とは祈りません。『イエス様と同じ苦難の道を歩ませてくださっている事に感謝します。』と祈ります。私にイエス様が味合われた十字架の痛みを分かち合って下さって感謝します。」
これこそ、キリストの弟子としての歩みではないでしょうか。主が下さる良いことだけを求めるのがキリストの弟子としての歩みではありません。
「もし子どもであるなら、 相続人でもあります。 私たちがキリストと、 栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、 私たちは神の相続人であり、 キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
もし、私たちが自分が中心にいることで苦難の道を避けているのであれば、この時間、その事を悔い改め、主と共に十字架の道を歩んでいこうではありませんか。その道は私たちを真理に導き、やがて永遠の命へと導いてくれると信じます。
■P:祈り
愛する天のお父さん、私が今まで、自分を中心として生きていたことを悔い改めます。口では「私はイエス様に従います」と言いながら、実際に苦難の道が目の前に置かれたなら、その道を避けようとしていました。
私を成長させるために神様が送って下さった試練を、サタンから来たものだと勘違いして、苦難の道を歩むことを避け続けていたことを告白し、悔い改めます。
どうか主よ、私が苦難に耐えることができる信仰を持つことができるように助けてください。やがて来るかも知れない、迫害、そして殉教に耐えることができる決して揺るがない信仰を私に与えて下さい。
そのために、今日、私が悔い改めることをみことばの中から教えてください。自分ではその罪を悟ることが出来ません。ですから、私の内に住んでくださっている、全てをご存知の聖霊様、私の知っている罪、また、隠れている罪をあなたのまことの光で照らし、これらを暴いて下さい。その一つひとつを、イエス様の血潮で洗い流して下さい。
私をみことばの前にへりくだらせて下さい。みことば一言、一言に尊厳を与え、神の御口から発せられた聖なる言葉として受け取ることができるようにさせて下さい。
主に対する恐れ(畏れ)を生じさせ、「イエス様こそ私の主、救い主、王、私の創造者です」と宣言し続ける事ができるよう、助けてください。
私の罪を贖い、洗い清めて下さるイエス様の血潮の力をほめたたえます。最愛なる私の花婿、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【 しゅん 】
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