■S:今日の聖書の言葉
列王記 第一 13章26節(列王記 第一 14章)

★その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、 それを聞いて言った。 「それは、 のことばにそむいた神の人だ。 が彼に告げたことばどおりに、 が彼を獅子に渡し、 獅子が彼を裂いて殺したのだ。 」

■O:今日のコラム
サウル、ダビデ、ソロモンと、イスラエルを統一した王朝は3代で終わりを告げ、ソロモンのがもたらした偶像礼拝の罪により、イスラエルは北と南に分裂してしまいます。北イスラエルの初代王となったヤロブアムは、人々の心を神に向けるのではなく、自分に引きつけるため、律法に背き、勝手に祭壇を作り、人々の中から勝手に祭司を選び、礼拝させました。
いつの時代でも、このような罪に対して、主は黙っておられません。王に対して道を正すようにその時代、その時代に預言者を遣わし、神の言葉を告げ知らせます。ところが残念ながら、多くの場合、その預言者の言葉は王に受け入れられません。
今日の聖書の箇所も同じような事が見られます。預言者である神の人がやってきて、ヤロブアムの悪事に対して、神からのメッセージを伝えます。神の人は人に対してではなく、祭壇に向かって預言します。(2節)
それを聞いたヤロブアムは祭壇から手を伸ばして、「神の人を捕らえよ」と命令します。すると、その伸ばした手が萎れてしまいます。(4節)焦ったヤロブアムは神の人にしなびた手を元に戻すように祈ってもらい、見事に癒やされます。(6節)
今まで迫害しようとしていた神の人が自分を癒やし、その力に圧倒されたのか、今度はヤロブアムは神の人を食事に誘います。(7節)しかし、神の人は次のような神からの命令を守ります。

「すると、 神の人は王に言った。 「たとい、 あなたの家の半分を私に下さっても、 あなたといっしょにまいりません。 また、 この所ではパンを食べず、 水も飲みません。【主】の命令によって、 『パンを食べてはならない。 水も飲んではならない。 また、 もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられているからです。 」(8、9節)

なんだかこういうの、ちょっとかっこいいですよね。ピンチの人を助けて「礼はいらないぜ!」と言って去っていくヒーローのようです。
この光景を見ていた、ベテルに住む別の年寄りの預言者の息子が父に報告します。「お父さん、神の人がやってきてさ、祭壇に向かって預言したらヤロブアムがキレてその人を捕らえろって言うんだ。そしたら、ヤロブアムの手はしなびたんだ。でも、神の人が祈ったら手が瞬間的に癒され、もとに戻ったんだ。かっこよかったー!」(ここは私の想像です)(10節)
報告を受けたベテルの老預言者は神の人に会いたくてたまらなくなり、神の人に出会いに行きます。(11-12節)
そして、神の人にうちに来てくれと頼むと、上の8、9節と同じ言葉をもって断ります。しかし、ベテルの老預言者は「御使いが私に語った」と嘘を言って神の人を家に招きます。
その食事の席で一緒にパンを食べ、水を飲んでいる時に老預言者に神の言葉が臨みます。

「 彼らが食卓についていたとき、 その人を連れ戻した預言者に、 【主】のことばがあったので、 彼はユダから来た神の人に叫んで言った。 「【主】はこう仰せられる。 『あなたは【主】のことばにそむき、 あなたの神、 【主】が命じられた命令を守らず、 主があなたに、 パンを食べてはならない、 水も飲んではならない、 と命じられた場所に引き返して、 そこであなたはパンを食べ、 水を飲んだので、 あなたのなきがらは、 あなたの先祖の墓には、 入らない。 』」

そして、神の人は帰り道に獅子に出会い、裂かれて殺されてしまいます。

いや、いや、いや、いや、ツッコミどころ満載です。ベテルの老預言者は神の人をだまして引き返させました。水も与えました。パンも与えました。なのに、客に向かって「あなたは神の声に背いた」と。
これを読んで、私は「いや、そうさせたのはベテルの老預言者ではないか。裁かれるべきはベテルの老預言者ではないか」と思わされました。みなさんはどう思うでしょうか。ここから何を学べるでしょうか。できたら、ご自分で列王記 第一の13章全体を読んで、少し考えてみて下さい。

■A:考えてみよう
私はここから、幾つかのことを学びました。その一つは召しを最後まで全うするということです。
信号を渡る時、特に歩行者用の信号は点滅をします。横断歩道に差し掛かっていたら、途中で赤信号になってしまい、焦って走ります。しかし、不思議と多くの人があと少しで向かいの歩道に入るというところで歩きはじめてしまう光景をよく目にします。
私たちはゴールを目の前にすると、気が緩んでしまうという傾向があると思います。
以前、学校でかけっこのときは、「ゴールのテープで立ち止まるのではなく、その10m向こうがゴールだと思って走り抜けろ」と先生に教えられ、実際にそのようにするとタイムが上がりました。
「イエス様が間もなく戻ってこられる」という期待感が高まるに連れ、「もうイエス様が戻ってこられるからいいか」と言って信仰の歩みを緩めてしまうのではなく、むしろここから加速する勢いで信仰のレースを走り抜いていきたいと思います。

もう一つ学んだことは、何かを成し遂げた後が危険だということです。
神の人は祭壇に預言し、ヤロブアムの手を癒やした時に、もしかしたら「自分は成し遂げた」と思い、そこから主に感謝を捧げることをしなかったのかも知れません。全ては主がしてくださったことなのに、それをあたかも自分がしてしまったと勘違いしていたのかもしれません。
王から誘われたときはうまく断れた神の人も、同労者であるベテルの老預言者から「御使いが語ったから」と言われたときには、その誘いに乗ってしまいました。私は、もしかしたら、先に偉大な御業を行っていなかったら、この誘いも断れたのではないかと思いました。
ヤコブの手紙1章13〜15節にはこのように書かれています。

「だれでも誘惑に会ったとき、 神によって誘惑された、 と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり、 ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、 おびき寄せられて、 誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、 罪が熟すると死を生みます。」

自分の中に「欲」があると、それによって誘惑され、罪を生み、それが死に至るのです。
神の人も、もしかしたら何かしらの「欲」があったのかもしれません。
イエス様はご自分を無にされ、実に死にまでも従われたお方です。そこにご自分の「欲」はありませんでした。それであれば、キリストに従う私たちも自分の「欲」を捨てて、すなわち自分に死に、自分の十字架を背負ってイエス様について以降ではありませんか。これこそ、キリストの弟子としての歩みです。

昨今、アジア諸国の緊張状態が続き、マタイの24章にかかれている「戦争のうわさ」をよく耳にします。しかし、私たちはうわさに流されないようにもしながら、自分のいのち、特に永遠のいのちに関して考えておく必要もあります。
もし、今日、ミサイルが飛んできたらどうするでしょうか。私たちの命は今日取られるかもしれませんし、あるいは何年も地上に残されるかもしれません。それは神様のご計画なので私たちにはわかりません。
しかし、今日でも、また何年先になっても、いつでもイエス様の御前に立つことができるよう、自分自身の信仰を建てあげて行くことは大切なことだと思います。
主とお会いした時に問われるのは地上での神様との関係です。どれだけ神様とともに歩んだかを問われます。今日という日に主を求めて祈り、みことばを朗読し、賛美し、主を礼拝していきましょう。

■P:祈り
愛する天のお父さん、今日、私が存在し、この場所に生かされているという大きな恵みを心から感謝します。今まで私は自分の力で生きていると思っていました。しかし、自分の力では心臓を動かし続けることはできません。自分のいのちを1秒でも伸ばすことはできません。私は主に生かされているという事を認め、感謝します。
どうか、私があらゆる惑わしから守られるよう、助けてください。悪から救い出して下さい。そして、御国を私の心の中心に来たらせてください。
私の内から目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢をキリストの完全な愛によって締め出してくださいますように。今日も自分に死に、キリストと共によみがえる、復活の力が私の内に働くことを感謝します。
今日も変わらない愛で私を愛し、見守って下さる主が、私とともにいてくださるので、私は恐れません。
全てを支配し、全てをお持ちである主が私の主であり、私の中に生きてくださっています。それなので、私はもう、他のものを求めません。全てをお持ちである主よ、あなただけを求めていきます。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【しゅん】

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