■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書13章21節(エレミヤ45章、1ペテロ1章)
★イエスは、 これらのことを話されたとき、 霊の激動を感じ、 あかしして言われた。 「まことに、 まことに、 あなたがたに告げます。 あなたがたのうちのひとりが、 わたしを裏切ります。 」
■O:今日のコラム
今週の月曜日からは過越しの祭りが始まっています。ちょうど過越しの季節にヨハネの福音書13章を読むことができることを感謝します。ぜひ、今のような気候にイエス様が十字架にかかられたんだと思って、四福音書に書かれている十字架の箇所を読んでみて下さい。
この過越しの祭りではセデルと言って、食事と共にイスラエルの歴史を伝える習慣があります。しかし、その一つひとつは色濃くイエス様の事を指し示しています。この季節、イスラエルの民に、そして私たちに啓示を持って過越しの真の意味が解き明かされていきますように。
その長い食事の最中に、イエス様は突然立ち上がり、腰に手ぬぐいをまとい、弟子たちの足を洗い始められます。
その後、イエス様は突然、弟子の一人がイエス様を裏切るということを発表されました。弟子たちの動揺はいかほどだったでしょうか。
この「霊の激動を感じた」とは、「心に苦しみを感じる、心を乱している」という意味があります。イエス様がこれほどまでに心を傷められた事は何でしょうか。それは、「裏切り」です。「裏切る」という言葉の詳しい意味は「私に対して不真実である」という事です。
今日の聖書箇所、ヨハネの13章の1節にはこのように書かれています。
「さて、 過越の祭りの前に、 この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、 世にいる自分のものを愛されたイエスは、 その愛を残るところなく示された。」
イエス様は愛を残ることなく示されたのに、その愛に対して不真実であったイスカリオテのユダ。私たちはこの記事を他人事として読むかもしれませんが、私は自分の中にイスカリオテのユダの要素があるのではないかと思わされました。
イスカリオテのユダは、弟子たちの中でもリーダー的な存在で、弟子たちから一目置かれていました。その証拠に、イスカリオテのユダは皆のお金を預かる役目をしていました。(29節)そのような者がイエス様を裏切ることになったのです。
ここからは私の想像なので、吟味が必要かもしれませんが、おそらくイスカリオテのユダは、イエス様の側にいながらも、本当は、人格と人格でイエス様と出会っていなかったのではないかと思います。どちらかというと、イエス様を利用しようとしていたのでは無いかと思います。
そうでなければ、神であるお方を銀貨30枚で売ったりすることは出来ません。イスカリオテのユダの心の中心にあったのはイエス様ではなく、自分というものだったのではないかともいます。
自己中心。これは罪の性質です。私たちはイエス様を信じていながらも自己中心という厄介な性質をなかなか捨て去ることが出来ません。イエス様は今でも私たちにこのように訴えられます。
「イエスは、 みなの者に言われた。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、 日々自分の十字架を負い、 そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)
毎日、自分の自我を捨て、それを十字架につけていく必要があります。これがイエス様の弟子である私たちの生き方です。
愛を残すこと無く示されたイエス様の愛を残すこと無く受け取るために、私たちの内にあるイエス様に対する不真実である性質を今日も十字架につけていきましょう。
■A:考えてみよう
ヤコブの手紙1章15節には次のようにあります。
「欲がはらむと罪を生み、 罪が熟すると死を生みます。」
人間の成長を見ても、子どもは「ちょうだい!ちょうだい!」と欲求が多い性質がありますが、成長すると自制の実が結ばれ、それが抑えられていきます。霊的な状態でも同じです。私たちがイエス様からいつまでも「ちょうだい!ちょうだい!」と何かを求め続けるのではなく、「受けるよりは与えるほうが幸い」とイエス様が言われたように、与えるものとなりたいものです。
もちろん、主は必要を満たしてくださるので、イエス様に求めてはいけないと言っているのではありません。私たちは大胆に求めることが出来ますが、必要以上に求めていることがある部分があるということを覚えましょう。
なぜ、「ちょうだい!ちょうだい!」と必要以上にイエス様に求め続けてしまうのでしょうか。それはやはり、自分の欲求が満たされたい。自分が、自分が、自分が…。どこまでも自分中心の思いがあるからです。
イエス様は山上の垂訓で、「心配しなくてもいい。必要なものは全て与えられる」と約束してくださっています。その約束を信じきる事ができますように。主は本当に必要を全て与えてくださいます。
イエス様が十字架にかかられ、よみがえられたこのシーズンに、自分の中の主に対する不真実な部分は無いか、しっかりと祈りの中でみことばを通して吟味していきましょう。
■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの大切な御子、イエス・キリストを私たちに送って下さった、信じられないほどの恵みを感謝します。目に見えない愛が形となったお方がイエス様です。
私たちに残すこと無く愛を示して下さったイエス様に対して、いまだに私が不真実であることを赦してください。
イエス様を十字架にかけたのはこの私の中にある主に対する不真実な心であることを認め、主の御前に告白します。私はこれ以上、イエス様の心を苦しめたくありません。
今日、この時間、私の中にある不真実な心を十字架の前に持っていきます。しかし、これは自分の力で行うことは出来ません。慰め主なる聖霊様が必要です。どうか、私を助けて下さい。イエス様に似たものとして、私を造り変えてください。
私の不真実さを洗い去り、きよめることができるのはイエス様の十字架の血潮しかありません。あなたの愛の証である尊い御血潮をこの時間、私の心に受け取ります。私を真実な者として下さい。あなたからの愛を余すこと無く受け取れるものとして下さい。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】
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