■S:今日の聖書の言葉
ローマ書10章2節、3節

★「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。 しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」

■O:今日のコラム
パウロがイスラエルの民について語っている箇所です。イスラエルの民はどの国の民よりも旧約聖書に精通していて、律法に生き、神に対して熱心な民であるとパウロは言っています。けれども、彼らの熱心さは「知識に基づくものではありません。」と書かれており、不思議に感じます。誰よりも旧約聖書の知識を持っているであろう彼らが「知識に基づいていない」とは、どういうことなのでしょうか。

それは、次に続く節を見ると分かります。彼らが持っていなかった知識とは3節にある「神の義」のことであり、その「神の義(神がお認めになる義)」とは、詳訳聖書によると『言葉と思いと行いにおいて人間を神に受け入れられる者とする』とあります。

私たち人間は自分の信仰のあり方こそが正しい、と思う弱さがあり、その弱さのゆえに教会の中ではお互いに対する批判や不満が絶えません。。。上記の箇所にあるように、人が「自分自身の義を立てよう」とするなら、「神の義に従う」ことは出来ません。「自分こそが正しい。」という思い、すなわち「自分の人格はもう完成していて、これ以上変わる必要がない。」という心は、神の義に反抗している思いなのです。

聖書学校を卒業することが「義」なのでもなく、5年以上クリスチャン生活をすることが「義」なわけでもなく、一日何時間も祈ることが「義」なのでもありません。聖書の基準による「義」とは『言葉と思いと行いにおいて神に受け入れられる者』となることであると教えてくれています。

どれだけ熱心に教会に通っていても、どれだけ人の目に正しいと見える生活をしていても、私たちの『言葉、思い、行い』が神に喜ばれるものでなかったら、それは神の義に従っていることにはならないのです。

自分自身を見つめる時、「こんな罪ばかりの自分が一体どうやったら、言葉、思い、行いにおいて神に受け入れられる者になることができるんだろうか…ハードルが高過ぎる…無理だ…」と、途方に暮れてしまいます。けれども、それこそがまさに「神の義」を知ることへの大きな一歩であります。

そうなんです、自分には無理なんです。その助け手として、主は御霊を私たちに与えて下さいました。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、 神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

とありますが、厳密には神の御心に沿う者へと「自分の力で自分を変えなさい」といっているのではなく、自分自身を「御霊によって変えていただきなさい」という意味です。

私たちは自分自身の義を立てるのではなく、「神の義」を求め、私たちの「思い、言葉、行い」が神に受け入れられる者、神に喜ばれる者となることが出来るために、聖霊様を更に求め、御霊の力によって変えられることを求めていきたいと願います。自分自身を聖霊様の御手にさらに明け渡していきたいと願います。

そしてまた同様に、イスラエルの民が救い主イエスを知ることが出来るようにも、とりなし続けていきましょう。

■A:考えてみよう
「こんな罪ばかりの自分が一体どうやったら、言葉、思い、行いにおいて神に受け入れられる者になることができるんだろうか…無理だ」という思いがあるだろうか?
「自分の力では、自分を神の基準の義に到達させることは出来ない。だからこそイエス様の十字架が自分には必要なんだ!」と思う心を持つ者こそ、山上の垂訓でイエス様が語っておられる「心の貧しい者」であり、「幸いな者」です。
今日もこのような「貧しい心」を持って、主の御前に出て行こう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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