■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き24章24節〜26節

★「数日後、 ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、 パウロを呼び出し、 キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
しかし、 パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、 ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。 おりを見て、 また呼び出そう』と言った。
それとともに、 彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、 幾度もパウロを呼び出して話し合った。

エレミヤ書24章7節

★また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。

■O:今日のコラム
パウロを殺害しようとするユダヤ人の陰謀を知り、千人隊長はローマ総督ペリクスの元へとパウロを送りました。ここで、ペリクスにとってはパウロの個人的な証し、またイエス様について、聖書についての学びを受けるチャンスがありました。けれども、総督ペリクスは結果的にパウロの言葉から遠のいてしまいました。なぜでしょう。
パウロは「正義と節制とやがて来る審判」について語ったとあります。詳訳聖書には「正しさと純潔な生活(情欲の抑制)と審判が来ること」とあります。ペリクスにとって、パウロの話しは興味深かったものの、「正義と節制(自制、純潔な生活)と審判」の話はなんとも都合の悪いものでした。

なぜなら、もしその話を受け入れるならば、自分の歩みと生き方を変えることになるからです。また、自分でも恐らく薄々「神の目に好ましくない」と思っている自分の生き方がずばり「罪」だと明らかになることにも、恐れを覚えたのでしょう。
それゆえに「今は帰っていなさい。私の都合の良い時にあなたを呼びにやる。」(詳訳聖書)と言ってパウロを追い返しました。

申命記を見ると分かりやすいですが、祝福を受け取るには条件があることが分かります。その条件とは、神の戒めに聞き従い、それを守り行うなら神の祝福を受ける、という条件です。その反対に神の戒めに聞き従わず、また聞いたとしてもそれを守り行わないなら、どうなるかは申命記28章の後半を見ると分かるでしょう。エレミヤ書においても、主は「あなたが心を尽くしてわたしに立ち返るから、わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる。」と語っておられます。

神の前に正しい心で歩むこと、きよい歩みをすること、また主が審判者としてやがて来られるという真実を覚えること。人の耳には都合が悪く聞こえるかも知れません。なぜなら、人はそもそも自分の生き方を変えたくないからです。自分の楽しみはとっておきたいのです。
自分の生き方を変えず、自分の罪と向き合わずにこのまま過ごせたら、楽だろうと思う時があります。
けれども、永遠の救いの他に、「永遠の報い」というものがあることを思う時に、またそれに目を留める時に、好き勝手にこの地上で過ごしていたら、もったいない気がしてきます。
ヘブル12章の信仰の証人たちのように、天の故郷にあこがれる歩みをすることが、幸いな者の生き方なのだと思わされます。

主は何度も何度もイスラエルの民に懲らしめを与え、痛みを与え、警告を与え、神に立ち返る(自分の歩みと生き方を神の方向、神の基準に立ち返る)ように呼びかけています。それは、単に厳しく叱りたいからでしょうか。
その逆です。
罪と滅びと永遠の刈り取りの代わりに、永遠の平安を与え、御父のもとで愛し愛される関係の中に民を取り戻したいからです。

愛する花婿の前に立つ、その日に、みすぼらしい姿で立ちたくはありません。神を愛する生徒たちすべてが、純潔できよく、力を帯びた花嫁姿で立つことができますようにと祈ります。

■A:考えてみよう
みことばから、霊的な親から、また教会のメッセージなどで語られることで、「都合の悪さ」を覚える事柄があるだろうか。(献金、純潔さ、みことばと祈りの生活、信仰のチャレンジなど。)それを疎ましく感じるだろうか。もし、行いで救いを得ようとする信仰、自分で自分を義とする信仰であるならば、信仰生活のチャレンジはすべてブートキャンプとなんら変わりがないでしょう。

また、主との愛の関係がないのならば、自分の生き方を変えるのは苦痛でしかありません。‘愛’という動機がなければ、「義と純潔な生活とやがてくる審判」の話は、都合が悪いと感じるでしょう。

また、たとい、正しく歩めるようになったとしても、主との愛の関係がないのなら宗教で終わってしまうでしょう。

もし、これらに都合の悪さ、疎ましさを覚える部分があるならば、まず聖霊様を求め、御霊を通して主との愛の関係へと招き入れられることを求めていきましょう。
花婿は昨日より今日、私たち一人ひとりと親密になりたいと願ってくださっています!

愛の関係には犠牲がともないます。「いのち」という犠牲をかけて私たちを愛して下さった方に、私たちはどのような犠牲をもって愛をあらわすことが出来るでしょうか。

■P:祈り
主よ。命すら、惜しまずに捨てて下さったのに、あなたのために主の心を痛めるような自分の生活を捨てることを惜しむ、私の心を赦して下さい。
更に深い愛の関係へと、聖霊様、どうぞ導き入れて下さい。愛のゆえに、喜んで変わりたいと願うことが出来ますように。惜しまずにあなたに自分を明け渡す者となることが出来ますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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