■S:今日の聖書の言葉
2サムエル6:22

★私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」

■O:今日のコラム
敬われる秘訣。と題して書いていますが、あなたは人生において敬われるということをされたいですか?
ダビデがなぜ人々に敬われたのか?
そしてダビデはそれを望んでいたのか?
「敬う」というの意味は日本語ですと、人や神仏を尊いものと考えそれを行動や態度に表す。という意味が出てきます。一般的にも老人を敬うや、目上の人を敬う..などとも使い、特に日本では敬いの文化が見えます。しかし、問題はどのように敬ったらいいのか、誰を真っ先に敬わなければならないのか?ということを本当の意味で知らないのかもしれません。
ダビデはどのように主を敬ったのでしょうか?
主の箱がレビ人により運ばれるにあたり、ダビデの行動はサウルの娘ミカルの目にさげすみとしてみえました。
2サムエル6:14
「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」
とありますが、20節にはミカルは「裸におなりになって。」と言っているので、主を敬っていない人にとってはダビデの行動は卑しい行動としてみえたのです。しかし、主はこの行動を喜ばれたと思います。人間の目には愚かなことが主の目には尊いことがあります。
ダビデはこの時すでにイスラエルの王であり、人々から敬われる存在でした。ダビデからすると敬う人物は地上にいたのでしょうか?ダビデは何より主を敬っていました。ダビデは主こそが敬われることを何よりも願っていました。この出来事の後の箇所に主の宮を建てる、という主への敬いの行動を示すのです。
神を敬っているならば、その敬いは行いにより確証されます。そして、その行いを人々が見る時に、
正しい者はあなたをも敬うのです。
ダビデは「私はこれより、もっと卑しめられよう。」といっているのに、その後には「あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」ともいっています。人間的に考えるならば、「敬われたければ、卑しめられることが必要なのか?」と思いますが、
ダビデは、「私の目に卑しく見えても」と自分自身でも理性では自分は何をしているのだろうとも思っていたのでしょう。しかしダビデが主を思う気持ちにより神の霊に従ったのでしょう。人に卑しく思えても主をもっとも敬いたいと願っていたのです。神を敬っているならば、その敬いは行いにより確証されます。そして、その行いを人々が見る時に、正しい者はあなたをも敬うのです。

■A:考えてみよう
真理の聖霊様は何を語ってくださっているか?
主を敬う行動しているか。たとえそれが人には愚かなことに見えることでも。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 あはごん 】

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