■S:今日の聖書の言葉
詩篇145篇18節
★『主を呼び求める者すべて、
まことをもって主を呼び求める者すべてに
主は近くあられる。』
■O:今日のコラム
私たちは霊をもって、また、まことをもって主を呼び求める事が出来るのです。そのいけにえは、主に受け入れられ、主に近づく事が出来ます。いつでも主に近づくためには、いけにえが必要です。礼拝というと、賛美、祈り、メッセージを捧げるというイメージがあります。しかしそれだけが礼拝ではありません。そのような礼拝を含めて、御心を行うという事が礼拝なのです。御心を行う事は、最も喜ばれるいけにえ、義のいけにえを捧げる事です。『義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。』(詩篇4:5)とあります。これは、聞き従う礼拝という言い方もできます。主にとって、私たちが聞き従う事は、どんないけにえにも勝るのです。
『するとサムエルは言った。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』(1サム15:22)
もちろん祈りがなければ絶対にこのいけにえを捧げる事はできません。主との愛の関係から全ての事は始まっていくのです。
聞く事と従う事の間に必要なプロセスがあります。それは御言葉を握る事です。私たちは、御言葉を昼に夜もそのおしえを口ずさむ事によって、御言葉を握り、御心を行う必要があります。主の足元で御言葉に聞き入り、それを口ずさみ(宣言し)、その自分に対する御心を行い、成し遂げる事は、霊とまことによる礼拝という事が出来るのです。なぜなら、
『いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』(ヨハネ6:63)
とあります。主がお語りになった言葉は、霊であり、いのちなのです。これを告白する礼拝は、霊による礼拝といえ(もちろんこれだけが霊による礼拝と言うことではありませんが)、それを行う事はまことによる礼拝という事が出来るのです。父は、霊とまことによる礼拝者を求めておられます。
マタイ7章の終わりの方では、天の御国に入る人がどんな人なのかが書かれています。それは、御心を行う者なのです。その続きには、預言する者や、悪霊追い出しする者、奇跡を行う者が、御国に入ろうと主に訴えるが、主に『あなたがたを全然知らない』と言われてしまいます。それが『不法』だとまで言われてしまうのです。預言をする事が悪いのでしょうか?いいえ。聞いた事に従順しないのが悪い事なのです。だから、その後の節はこうです。
『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。』(マタイ7:24)
主の語られた言葉を聞いたならば、それを行う事で私たちは、報いを受けるのです。主人がそれに従順した者に報いを与えるのは当然の事です。
■A:考えてみよう
主の足元で聞き、それを昼に夜に告白し、行う。
■P:祈り
私が、あなたに聞き従う事によってあなたへの愛を表す事が、ますます出来るようにさせてください。
【 まじまこ 】
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