■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書15章20節(詩篇134篇)

「彼らはイエスを嘲弄したあげく、 その紫の衣を脱がせて、 もとの着物をイエスに着せた。 それから、 イエスを十字架につけるために連れ出した。」

■O:今日のコラム

この後、イエス様は十字架を背負いゴルゴダの丘を上っていかれました。
十字架刑を受ける者は、自分がこれから架かる十字架を処刑される場所まで運んでいかなければなりませんでした。本来は罪深い人間の結末を人々に見せしめにするための上り坂です。
この時点で、イエス様は鞭打たれた後でした。しかも、それはただの鞭ではなく、この時代の拷問に使われた鞭の先には動物の骨や金属の破片などがつけられたもので、肉体を打つ度に肉が剥がれるような残酷なものだったと言われています。中にはこの鞭打ちの段階で死んでしまう人もいたそうです。
ゴルゴダの丘を上る時、イエス様の体は、肉が裂け、骨が見え、とめどなく流血しているような、目をそむけたくなるような痛々しい状態だったであろうと思います。
まさにイザヤ書53章に表されている姿でした。

「彼には、 私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53:2b)

イエス様は福音書の中でこのように言われています。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マタイ16:24)

イエス様が背負われた十字架。それは自分の罪のゆえに背負う十字架ではありませんでした。どこまでも正しいお方が、私たちを愛するゆえに、身代わりで背負われた十字架です。
ですから、イエス様が言われている「自分の十字架を負い」とは、決して自分の罪のゆえに背負う十字架ではありません。自分の失敗のゆえに刈り取りとして背負うような十字架ではないのです。「自分の十字架」、それは、例え自分が正しかったとしても、愛のゆえに誰かのために背負う十字架です。

私たちの罪はイエス様が背負われました。では、私たちが負うべき「自分の十字架」とはなんでしょうか?
それは、イエス様を愛するゆえに、イエス様のために背負う十字架です。それは、主への愛のゆえに負うべき重荷であり、捧げるべき犠牲であります。

また、イエス様はあらゆる箇所で「わたしについて来なさい。」と語られていますが、この「ついて来なさい」という言葉には、原語(詳訳聖書)によると「わたしと同じ道を歩みなさい。わたしに堅くよりすがり、わたしの模範にならいなさい。」という意味であることが分かります。

私たちが「イエス様のようになりたい」「イエス様のように歩みたい」と言う時、思い描くのはイエス様が人々に御国の福音を伝え、数々の奇跡を起こされた姿かもしれません。けれども、イエス様が私たちに「わたしについて来なさい。」と語られているのは、「私と同じ道を歩みなさい。私のように『自分の十字架』を背負いなさい。」と言う意味であることを、今日、もう一度思い起こしたいと願います。

「イエス様についていく」とは、日々、自分を捨てる歩みであり、古い罪の性質を十字架につける歩みです。

「自分の方が正しい」と思う時にさえ、裁きを御父の御手に委ねて自分の正しさを明け渡すことであり、愛し難き存在に仕え、赦し難き存在を赦すことを意志をもって選択する歩みなのです。
それはまさに自分に死ななければ出来ない選択であり、イエス様のゴルゴダの丘の姿と同じように、身の裂かれるような痛み、悔しさを味わうかもしれません。

今まさに、ゴルゴダの丘へと上っている方もおられるかも知れません。私たちは、是非、次の御言葉に目を留めたいと願います。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、 その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。 それは、 キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、 キリストにつぎ合わされて、 キリストの死と同じようになっているのなら、 必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:3~5,8)

私たちが十字架の死を体験するなら、その後に待っているのはキリストと共に栄光の姿によみがえる、という恵みです。死にまで従われたイエス・キリストを御父は天上において御自分の右の座につかせられました。同じように、私たちがキリストに従って十字架の死にまでついて行くならば、主が時に叶って私たちを高く上げてくださるのです!それは揺るぎない真実であることを感謝します!ハレルヤ!

■A:考えてみよう

今日、背負うべき「自分の十字架」とはなんだろう。
身近な人の悪意のある言葉に言い返さないことかも知れません。自分のためには、何一つ良いことをしてくれない人に仕えることかも知れません。まさに、「悪者」と思うような人に愛を示すことかも知れません。面倒くさい、忙しい、それどころではないと思う中ででも、主のために時間を作り、祈り御言葉を読むことかも知れません。それらすべてを、一気には出来ないでしょう。けれども、そのために、私たちには自分を捨てるための「日々」が与えられていることを感謝します。

■P:祈り

聖霊様、私の今日の一日のすべての中にあなたを歓迎します。
自分の力では「自分の十字架を背負い」「イエス様の歩まれた道に従う」ことはできません。聖霊様あなたが必要です。あなたにより頼みます。
イエス様、あなたの十字架の死を体験するなら、あなたの復活が与えられることを感謝します。
あなたが受けられた恥、身体的苦痛、屈辱、あなたが遂げられた十字架の死に比べるならば、私が明け渡すことをためらい惜しんでいるような事柄はなんと小さなものでしょう…けれども、私がそれをあなたに明け渡すなら、主がそのいけにえを尊いものとして見てくださることを感謝します。
今日、死ぬべき私の自我を、自分勝手に生きることを、自分の正しさを主張したいという思いを、十字架に掛けることが出来ますように。そのプロセスの中にある恵みを知ることが出来ますように。私のために、背負われた十字架、引き裂かれた肉、流された尊い血潮を感謝します。あなたの十字架だけが、今日も私の誇りです!
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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