■S:今日の聖書の言葉
詩篇124篇1〜3節(マルコの福音書5章)

★『「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」
さあ、イスラエルは言え。
「もしも主が私たちの味方でなかったなら、
人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたまま
のみこんだであろう。
彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、」』

■O:今日のコラム
私たちは、神の側に立つべきです。世の中には二種類の人間がいると言えるでしょう。それは、神の側に立っている人とサタンの側に立っている人です。世の中は、神の国とサタンの国しかないので、人はどちらかに立っている事になります。神の子どもがサタンの側に立ってしまう事もあるのです。それは、人をさばいたり、引き下げたり、あざけったりする時にそうなります。神の側でありましょう!どちらに立っているかをハッキリさせている事は、霊的な戦いにおいて重要です。

『わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。』(マタイ12:30)

『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。』(マルコ9:40)

主が私たちの味方であるなら誰が敵対できるでしょうか?しかし、主が味方でなかったら、というのがこの詩篇です。味方、敵の区別はどこで付けられるのか?が重要なのではないでしょうか?それは、私たちの言葉と信仰の行いによる事がマタイ12:30、マルコ9:40を見ると分かると思います。
霊的な戦いにおいて最前線で戦うのは、御使いです。闇をもたらす悪霊たちも御使いであり、悪霊と戦うのも御使いである事がダニエル書を見ると分かると思います。その時には、天使ミカエルが、ペルシャの君と戦ってくれて勝利が与えられました。
イエス様は、いつでも私たちの模範ですが、そのイエス様にも御使いが仕えていました。しかし、その時にも、どちらに立つかがハッキリしないと御使いは仕える事が出来なかったのです。

『イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』(マタイ4:10〜11)

私たちの口の言葉が、まず信仰の告白、御言葉の告白になっている事は重要です。私たちは、この言葉を軽く扱う事は出来ません。神の子どもの言葉には、霊的な力があるのです。良くも悪くもです。この口から、甘い水と苦い水が両方出てくる事は良くない事です。この言葉が信仰の告白、御言葉の告白であるなら、私たちは、神の側に立っている事が明らかになるのです。そしてそれは権威の傘に入っている
という事もできます。

『ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。』(1コリント11:10)

御使いたちのためにも、言葉によって、行いによって神の側に立っていることをハッキリさせましょう!行いも同様に重要なのです。なぜなら御使いは、救いの相続者たちに仕える霊である、と聖書にあります。

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』(ヘブル1:14)

では、救いの相続者とは何でしょう?私たちは、キリストの血によって相続者とされますが、それを放棄してしまう事があります。何によって判断されるでしょう?それは行いによってです。

『肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』(ガラテヤ5:19〜21)

御使いは、相続者に仕える霊なのです。口では良いことを言って、行いが違うなら、御使いは、キチンと仕える事が出来ません。

■A:考えてみよう
言葉が、信仰の告白、御言葉の告白であるように、またその通りに行えるよう求める。

■P:祈り
私の口が信仰の告白、御言葉の告白という、御霊の物を蒔き続けることができるようにさせてください。またその通りに行えるように助けてください。

【 まじまこ 】

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