■S:今日の聖書の言葉
サムエル記 第一 19章18節(サムエル記 第一 20章)

★ダビデは逃げ、 のがれて、 ラマのサムエルのところに行き、 サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話した。 そしてサムエルと、 ナヨテに行って住んだ。

■O:今日のコラム
想像してみて下さい。あなたは某有名企業の会社員としてバリバリ仕事をしています。新人ではありますが、抜群の企画力と実行力で、次々と大手顧客の契約を取り付け、成績を伸ばしていきます。上司や社長からも一目置かれるようになり、ついには社長お抱えの専属部署に配備され、そこでも更に手柄を上げていきます。
しかし、どうしたことか突然社長が手のひらを返したようにあなたの事をねたみはじめます。それだけではなく、エージェントを雇ってあなたのプライベートにまで侵入し、あなたの命を狙います。

このような状況に追い込まれた時、あなたはどうするでしょうか。

ダビデは、現代に例えるならば、このような状況に追い込まれたのではないかと思います。サウル王は今までダビデを信頼し、愛していました。しかし、それが転じてダビデを殺したいという思いでいっぱいになってしまいます。「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざもありますが、ねたみとは恐ろしいものです。
ねたみも罪のリストに入れられているものの一つです。

「肉の行いは明白であって、 次のようなものです。 不品行、 汚れ、 好色、 偶像礼拝、 魔術、 敵意、 争い、 そねみ、 憤り、 党派心、 分裂、 分派、 ねたみ、 酩酊、 遊興、 そういった類のものです。 前にもあらかじめ言ったように、 私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。 こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ 5:19-21)

ねたみが募ると殺人の罪にまで至ってしまいます。もし、自分の中に人をねたむ心があるなら、今、速やかに主の御前に告白し、悔い改めの時を持ちましょう。主は砕かれた心を愛してくださいますから、告白するものを赦してくださいます。
ちなみに、「妬み(ねたみ)」と「嫉み(そねみ)」はにている言葉ですが、意味は違います。共に人と自分を比べる事は共通していますが、「ねたみ」は人と自分を比較して、その矛先を人に向け、相手を批判したり様々なことをして相手を低くすることです。
一方、「そねみ」は人と自分を比較して「ああ、だから私はだめなんだ」と自己卑下し自分を小さいものと見ることです。このどちらも間違いです。私たちは人と比べる必要はありません。神様が私たちをどう見てくださっているかが大切です。

「すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。」(ルカ 3:5)

話をサウル王とダビデに戻します。

命を狙われたダビデはどのように行動したでしょうか。もしかしたら実力ではサウルを上回っているので、あるいはやっつけることも出来たかもしれません。しかし、ダビデが取った行動は「逃げる」ということでした。

ダビデはこの後もサウル王に追われますが、決してサウルに対して手を上げません。一度、サウル王が用を足している時にその衣の裾を切り取りますが、そのことですらダビデは後悔しています。
ダビデは主が油を注がれた人に手をかけることがどれほど大きな罪かをよく知っていました。そしてダビデは主が立てられた権威に最後まで従い通したのです。その謙遜と従順がダビデを王にまですることになったのではないかと思います。

苦難の中に置かれていたダビデでしたが、その中でも主に信頼し続けていました。それゆえに、主はヨナタンやミカルと言った助け手をダビデに使わして下さいました。

私たちも日々の生活の中で「なぜ?」と思いたくなることが数々起こってくるでしょう。しかし、私たちが心に刻んでおきたいことは「主を恐れる」ことです。
どんなことも主の御手の中にあり、主の許しなしには何一つ事は起こりません。ですから、目の前の事実に振り回されてしまうのではなく、健やかなときも病めるときも、富めるときも貧しいときも変わらず主を見続ける必要があります。

主を何よりも愛し、みことばを心から慕い求めるなら、神が私たちに知恵を与えてくださいます。

「しかし、 上からの知恵は、 第一に純真であり、 次に平和、 寛容、 温順であり、 また、 あわれみと良い実とに満ち、 えこひいきがなく、 見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)

あなたを迫害するものを打ち負かしてしまうのではなく、むしろ愛を持ってへりくだり、その人を祝福する。これは実は相手に対して手を上げることよりも強いことではないかと思います。後者の方が心に余裕がある人の対応だからです。
そもそも相手に対して対抗しようとするということは、相手と同じ目線で戦おうとしているのです。私たちは王の王である神の子どもです。だから、神の視点を持って生きていく必要があります。

イエス様もみことばを通してこの事を教えてくださっています。

「わたし(イエス様)のために人々があなたがたをののしり、 迫害し、 ありもしないことで悪口を浴びせるとき、 あなたがたは幸いです。喜びなさい。 喜びおどりなさい。 天ではあなたがたの報いは大きいから。 あなたがたより前にいた預言者たちを、 人々はそのように迫害したのです。」(マタイ5:11,12)

みなさんが一生懸命やればやるほど敵と思える人が増え、状況が悪くなっているように思える時があったなら、喜んで下さい。それはあなたを次のステージへと引き上げる主の訓練なのです。
このテストにパスするヒントは「謙遜」です。
必要以上に自分を低くするのでもなく、必要以上に高ぶるのでもなく、主が私たちを作られた本来の姿に立ち戻ることです。主は様々な手段を用いて、私たちを整えてくださいます。抵抗すれば痛みは長引くかもしれませんが、降伏して主に従順するなら、最短で荒野を抜け出ることができると信じます。

イエス様も人々がイエス様を王として立てようとした時、群衆の間をすり抜けて逃げられました。
また、イエス様を律法学者やパリサイ人が殺そうとしたときにも逃げられました。
十字架の時がまだ満ちていなかったからです。

イエス様も逃げることを恥とは思われていませんでした。
それであれば、私たちもイエス様に従う弟子として、「勇気を持って逃げる」という決断を下すことは正しいことなのです。

ロトはソドムの地から命がけで逃げました。
ヨセフは主人の妻から誘われた時に上着を置いてでもその場から逃げ去りました。
私たちの人生に「逃げる」という選択肢を追加仕様ではありませんか。

しかし、ここで大切なのはどこに逃げるかということです。

「それゆえ、 預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、 聖なる所に立つのを見たならば、 (読者はよく読み取るように。 ) そのときは、 ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」(マタイ24:15,16)

私たちは「山」に逃げるのです。

山とは、主が住まわれる山です。エルサレムは山の上にある町です。そこに神殿が建てられ、契約の箱が置かれていました。つまり、山は礼拝を意味します。

神の宮である私たちの心の聖所に『荒らす憎むべきもの』が立ったなら、私たちは礼拝に逃れる必要があります。
ダビデがサウル王から逃げ去ったところはラマのナヨテというところでした。
そこには預言者サムエルが住んでおり、預言者の学校もあった場所です。
世がもたらすノウハウに頼るのではなく、頼るべきとことはみことばであり、主ご自身です。

苦難の中にあるみなさんが祈りの家である教会に来て礼拝されることを祝福いたします。解決はそこにあります。
祈りの家である主の家こそが私たちの逃げ場です。

私たちを愛し、見守り、義の道へと導いて下さる主がとこしえまで共にいてくださいますように。

「神はわれらの避け所、 また力。苦しむとき、 そこにある助け。」(詩篇46:1)

■A:考えてみよう
私を迫害していると感じる人に対して、私はどのような態度を取っているだろうか。ねたみに対してねたみで対抗していないだろうか。

「だれに対してでも、 悪に悪を報いることをせず、 すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(ローマ12:17)

のみことばを実行できているだろうか。
様々な人からのプレッシャーによるストレスを発散するために、世の中の楽しみや解決方法により頼んでいないだろうか。

悩みがあるなら、仕事の終わった後でも、少しの犠牲を負ってでも祈りの家に行って祈りの時を持ちましょう。主はゆくべき方法を示してくださると信じます。
そして、キリストの心が私たちの内に形作られ、第二の戒めである自分を愛する愛で隣人を愛することができるようになりますように。

「しかし、 わたしはあなたがたに言います。 自分の敵を愛し、 迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:5)

「しかし、 いま聞いているあなたがたに、 わたしはこう言います。 あなたの敵を愛しなさい。 あなたを憎む者に善を行いなさい。」(ルカ6:27)

「ただ、 自分の敵を愛しなさい。 彼らによくしてやり、 返してもらうことを考えずに貸しなさい。 そうすれば、 あなたがたの受ける報いはすばらしく、 あなたがたは、 いと高き方の子どもになれます。 なぜなら、 いと高き方は、 恩知らずの悪人にも、 あわれみ深いからです。」(ルカ6:35)

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの大きな愛に信頼いたします。
あなたは私の周りに多くの敵がいることをご存じです。しかし、その敵を私の周りから取り去ってくださいと祈るのではなく、私をそれらの敵から守ってくださいと祈ります。私が試みに合わないように守って下さい。
そして、主が私を愛してくださったように、彼らを愛することが出来ますように。
しかしながら、そのようなことをできる愛は私の中に全く無いことを認めます。ですから、主よ、あなたの御腕の中に逃げ込みます。あなたこそ私の避所です。
私を抱きしめて下さい。私をいっぱい愛して下さい。私を慰めて下さい。私を回復させて下さい。
あなたの臨在の中で受けた愛を持って、人々を愛していくことが出来ますように。
花婿なる愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【しゅん】

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