■S:今日の聖書の言葉
1サムエル9:15-17

★主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。
「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」
サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」

★サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。

■O:今日のコラム

サウルを王として選んだのは神様の御心でした。

雌ろばがいなくなったのも、
預言者サムエルがちょうど町に来ていたのも、
サムエルがサウルと会う前の日に、神様ご自身がサムエルにサウルのことを伝えておいたのも、

サウルが王として選ばれたことが偶然ではないことを、示しています。

ダビデが王として選ばれたことも、偶然ではありませんでした。

サウルもダビデも、イスラエルを治める王として神が選ばれたこと、正規に油注がれたこと、それは確かなことでした。

でも、その後、王としてどのように歩むのか、それはサウルが、ダビデが、一つずつ選んでいきました。

聖書は、私たちのことを、王族の祭司、王国だと言っています。
神様の願いは、私たちが、主とともに治める者となることだ、とも書いてあります。

ですから!
聖書を読むときには、イスラエルの民、王たちに起こった様々な歴史的な事柄を、他人事として読み流すのではなく、心に深く留め、注意深く、そこにある主の本意、教訓を学ぶべきです。

2テモテ3:16
「聖書はすべて、神の霊感によるもので」す。

1コリント10:11
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 」

サウルとダビデの召しと、その結末から、私たちは何を学べるでしょう?

王として、祭司として、召された後、油注がれた後、ミニストリー、ミッションに入った後こそ、サウルのような、善悪の知識の木から食べる、肉的な歩みをしないよう気をつけなければなりません。

実を確認しましょう。

私たちの中に、怒り、妬み、憎しみはあるでしょうか。
あるとしたら、私たちは誰の声を聞いているのでしょう。
私たちを罪に定めない、かばってくださる、父の御前で弁護してくださるイエス様の声を聞いているでしょうか?
それとも、神の御前で日夜私たちのことを訴えている悪魔の声を聞いているでしょうか?

私たちは、苦い根を生やしたり、実を結ばないものになるのではなく、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ぶものになりたいのです。

神の国を治める王として任命された後、聖霊の油注ぎを受けた後からこそ、ぶどうの木、いのちの木であるイエス様にしっかり繋がり、時が来て主が私たちを通して実を結んでくださるのを見ていきましょう!

■A:考えてみよう
私の心はサウルのようだろうか、ダビデのようだろうか。
私は善悪を知る知識の木から食べているだろうか、いのちの木から食べているだろうか。
私はイエス様の愛の中にとどまっているだろうか。

■P:祈り
イエス様の中に留まることができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

【 とも子 】

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