■S:今日の聖書の言葉
詩篇114篇8節
★神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。
■O:今日のコラム
詩篇114篇全体は、イスラエルの民が出エジプトして約束の地に入る為に、自然界さえが主の前におののき伏した事が描かれています。海が逃げるとは、あの紅海が2つに分かれて道ができたこと。ヨルダン川がさかさに流れたのも、皆さん、何の話か分かりますよね。
その中で、私が今日ピックアップしたのは、最後の節。出エジプトの中で、水に関する奇跡がいくつかあるのですが、ここでは、水が完全にない状態から、水を岩から溢れ出したことを詩篇の作者は歌っています。
皆さん、このような疑問をもったことありませんか?なぜ、神様はわざわざ岩から水が出るようにしたのかと。天から雨を降らせる方法もあっただろうし、地から湧き出る方法もとれたと思いませんか?そもそも、イスラエルの民が食べていたあのマナは、天から降ってきたパンです。石ころをパンにすることもできたと思いますけど、あのマナは天から降ったと。
神様はランダムにそういう手段を使おうって考えたと思いますか?そんなわけないですよね。神様は、ご自分のなされることすべてにおいて、神様なりの計画と意味をもっています。そして、私たちがそれに気がついて欲しいと願っています。
第一コリント10章の初めに、パウロがこの事について触れています。イスラエルの民が紅海を通って、マナを食べ、岩から水を飲んだのには、ただの物質的なことだけではなく、神様の本質である霊的なことです。パウロは、ここで、彼らはみな御霊の食べ物を食べ、御霊の飲み物を飲んだと。そして、4節後半には、このように書かれています。
「…というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」
もう、皆さん分かりましたよね。モーセが打った岩。それがイエス様です。そのイエス様から生ける真の水が溢れるということです。2つの場所で、神様は岩から水を出すのですが、1回目はモーセに岩を打つように命じます。しかし、2回目は、岩を打つのではなく、ただ言葉で命じるようにと伝えますが、モーセはイスラエルの民に対しての怒りがもう限界だったのか、岩を2回打ってしまいました。そのことによって、モーセは約束の地に入ることができないと神様に言われてしまうのですが、神様、たった、小さな不従順でそんな大きな罰をモーセに与えなくていいでしょって思いませんか?
けど、このことには、深い奥義が隠されています。モーセが打ったのは、岩ではなく、イエス様です。神様の計画はイエス様が1回だけ打たれることで、命の水が溢れることです。2回目はないのです。2回目は、めいじるだけで、命の水は湧き上がるからです。もうイエス様は、打たれる必要がないのです。だから、モーセが岩を打ったことは、神様の大きな計画を壊したということになるのです。
長々と書いてしまいましたが、とにかく、ここでのポイントは、岩がイエス様であるということ。その岩から生ける水があふれ流れています。マナに関しても同じことが言えます。わざわざ天から降らせたのは、天から地に降りてきた生けるパンであるイエス様なのです!
■A:考えてみよう
神様は私たちにイエス様を与えてくださり、そこから、水を飲むように招いています。また、私たちの堅い石のような心からも、生ける水が溢れることができるお方です。今日、この方に自分自身を委ねて、この方から食べ飲み、生きていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 かよ 】
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