■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書9章28節(詩篇87篇)

★彼らは彼をののしって言った。 「おまえもあの者の弟子だ。 しかし私たちはモーセの弟子だ。

■O:今日のコラム
みなさん、いつもマナメールをご購読くださり、心から感謝します。現在、2,000人以上の方がご登録くださり、また、多くの方が受け取ったメールを沢山の方に転送されているという報告を聞いています。外の働きに遣わされたときも、多くの方が「マナメール読んでいます」と言って励まして下さいます。心から感謝します。
しかし、私の個人的な願いがあります。それは、マナメールを見て満足するのではなく、むしろ、みなさんご自身がみことばを読み、そこから直接神様から語りかけられ、その語りかけを受けてその通りに行動されることです。もし、このマナメールだけをご覧になってみことばを読んでいないというのであれば、今日、切なる飢え渇きを持ってみことばを開きましょう。必ず主はあなたに必要なみことばを指し示して下さいます。

さて、今日の聖書の箇所は、生まれつきの盲人が安息日にイエス様に癒やされるという箇所です。多くの事をこのエピソードから教えられますが、注目したいキーワードは「目」「親子」「安息日」「罪」ということばです。
福音書では、多くの人が癒やしを受けますが、その多くの箇所で親子が登場するのにお気づきでしょうか。今日の箇所もこのように書かれています。

(1)罪と親子

「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。 「先生。 彼が盲目に生まれついたのは、 だれが罪を犯したからですか。 この人ですか。 その両親ですか。 」(2節)

ここから読み取れることは、当時のユダヤの文化において、病は罪から来るもので、先祖から流れてくる咎が原因だ」と考えられていたのではないかということです。
その証拠に、弟子たちは盲人を見た時に上のような質問をイエス様にしたのではないかと思います。

「それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。 あなたの神、 【主】であるわたしは、 ねたむ神、 わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、 三代、 四代にまで及ぼし、」(出エジプト記 20:5)

咎とは罪の結果生じる具体的な罰せられるべき行為です。もし、誰かが罪を犯し、悔い改めないままで子孫を残すなら、その咎は三、四代にまで及ぶのです。そして、

「罪から来る報酬は死です。 しかし、 神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

そうです。どのような罪・咎を背負っていても、親からどのような罪・咎が流れてきていても、永遠のいのちはキリストのうちにあります。この方の流された命である血によって、私たちの罪・咎は洗い清められます。悔い改めと血潮をもって、日々自分の、そして先祖から流れてくる罪・咎を洗い流していきましょう。
そして、悔い改めるなら、同時に肉体的な病も癒やされていくと信じます。

(2)罪と目
しかし、ひとつ問題があります。それは、私たちの霊の目が閉ざされているので、自分の罪・咎を悟ることが出来ないということです。
イエス様は今日の聖書の箇所で、「目が開かれる」ということと「罪」を紐付けられています。
私たちは不思議なもので、他人の罪や失敗はすぐに気づきます。しかし、案外自分の罪や失敗は気づいていないものです。ですので、私は人の弱さや罪の性質、失敗を見るのであれば、それを自分のものとしてとらえ、みことばを通して悔い改めます。
人に弱さや罪の性質が見えるのは、それが私たちの内側にあるものであり、それが相手に写っているだけであるということを知らなければなりません。

「また、 なぜあなたは、 兄弟の目の中のちりに目をつけるが、 自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」(マタイ7:3)

相手の弱さを見る時、相手を裁くのではなく、まず、それらを自分の罪の性質として認識して悔い改めること。それが上のみことばのように、まず自分の目の中から梁を取り除けるということだと思います。
罪と目は密接に関わっています。皆さんの霊の目が開かれ、イエス様の輝かしい栄光と聖さを見て、自分の光が当てられてない部分を悟ることが出来ますように。

(3)罪と律法
また、もう一つの問題は、他人の弱さが何であるかをはっきりと見分けなければならないということです。
私たちの心に語りかける声は、大きく分類して、神からの声、悪魔からの声、そして自分自身の肉から出た声に分けられます。私たちはこれを見分けていく必要があります。
それでは、どのようにしてこれを見分けることができるのでしょうか。人生経験からもあるいは可能かもしれませんが、それでは不十分です。それらを見分ける唯一の方法はみことばを通してです。

「それでは、 どういうことになりますか。 律法は罪なのでしょうか。 絶対にそんなことはありません。 ただ、 律法によらないでは、 私は罪を知ることがなかったでしょう。 律法が、 「むさぼってはならない」と言わなかったら、 私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)

律法とは、広い意味でモーセ五書、また旧約聖書を指します。上のみことばに書かれているように、たしかに律法が「むさぼってはならない」と言ってくれないと、むさぼりという事自体を私たちが認識できなかったでしょう。
聖書、特に旧約聖書を読む時に「神様は怖い方。なぜならいつも私を責めて、私を裁くから」という方がいらっしゃいます。それは事実です。しかし、なぜそのような事を愛に満ち溢れた天のお父さんがされるかを知る必要があります。
また、黙示録を読んでも同じように「怖い」と感じる方もいらっしゃいます。しかし、それは天のお父さんの愛です。
なぜなら、天のお父さんは、私たちから罪の性質を全て切り離したいと切に願っておられるからです。神様は聖なるお方ですから、私たちも神の子どもとして聖くなっていく必要があります。そのような霊的な成長を妨げてしまうのが私たちの内にある罪の性質です。
聖書のみことばは、私たち自信を滅ぼそうとしているのではありません。私たちの中にある罪の性質を私たちから切り離し、聖霊様の火によって焼き尽くしたいと願っているのです。
ですので、聖書を読んでいて罪責感がやってくるなら、素直に「神様、私の中にある弱さを認めます。これを2000年前にイエス様は背負ってくださり、十字架の死と葬りと復活を通して私に永遠の命を与えてくださったことを感謝します。私の弱さはイエス様の血潮によって強さへと変えられたことを感謝します」と祈ってみて下さい。
この祈りを続けていくうちに、自分がどれほど霊的な圧迫の下に生かされていたかを知ることができるでしょう。解放されるなら、本当に心も身体も軽くなります。
天の父が完全であるように、私たちも完全になることを目指していきましょう。

(4)安息日
最後は安息日です。ユダヤの人々は安息日を守ることに命をかけていました。なぜなら安息日を守ることは律法で命じられているからです。これを守らなければ民から断ち切られるか、石打にされてしまいます。それは守ることに必死になるのも分かります。
しかし、残念なのは彼らはその律法の本質を理解していなかったということです。律法の本質は天の父の愛です。神様は私たちをぎゅーっと抱きしめたいからこそ、私たちの内にある罪の性質を律法により悟らせ、それをイエス様の血潮で洗い流されます。
しかし、当時の律法学者たちは目的を見失い「安息日を守る」ということが目的となってしまっていました。本来の目的は天の父の所へ行くことです。安息日はその手段です。
長い歴史の中で、彼らは律法を守ることが全てになってしまっていたのです。神の教えを人の教えへと変えてしまい、自分自身が重荷を負ってしまっていました。イエス様は言われます。

「すべて、 疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、 へりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからです。 」(マタイ11:28-29)

私たちが負うのはイエス様の下さる荷物です。
特にクリスチャンとしての歩みが長くなってくると、神様の教えからの教えから徐々にそれていってることにすら気付かないこともあります。それを悟らせることができるのが律法です。みことばです。

今一度、私たちは律法の本質に立ち返りましょう。
イエス様は律法を廃棄するために来られたのではなく、成就するために来られました。(マタイ5:17)
イエス様は律法を書かれた張本人です。著者が直接ご自分の書かれたことをその御口で解説されているのが福音書であり、それが凝縮されているのがマタイ5〜7の山上の垂訓です。

もし、律法をそのまま守るのであれば私たちは死に向かっていくかもしれません。しかし、律法を成就された方、イエス様に従っていくなら、私たちは永遠の命を持つことが出来ます。

今日の聖書の箇所で律法学者が言ったことば「おまえもあの者の弟子だ。 しかし私たちはモーセ(律法)の弟子だ。」これは小さなことではありません。

■A:考えてみよう
私からもみなさんに質問します。律法に従いますか。それとも、イエス様に従いますか。
私たちはもう一度、律法の本質を知る必要があります。それは自分の力では悟ることが出来ません。
律法の書をイエス様の十字架を通して見る必要があります。それだけではなく、御霊の助けが必要です。
この事が1ヨハネ5章7、8に書かれていることです。

「あかしするものが三つあります。 御霊と水と血です。 この三つが一つとなるのです。」

御霊によって祈り、水(みことば)を朗読し、悔い改めとイエス様の血潮を宣言して祈る祈り。これを毎日続けていくなら私たちはキリストの弟子として成長させられます。

そして、日本の中で忠実にこれらを続ける皆さんを通して、この国に国家的な、今まで歴史上誰も見たことがなかったような大リバイバルが起こっていくことを祝福します。

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたはいつも良いお方です。あなたが私を愛してくださることによって、時には厳しく戒めてくださることも感謝します。その戒めは私たちを滅ぼすものではなく、むしろ生かし、永遠のいのちへと至らせて下さる道であることを感謝します。
どうか父なる神様、あなたが下さる知恵と啓示の御霊を注いで下さい。そして、私たちの霊の目を開いて下さい。あなたをもっとはっきりと見るために。みことばの悟りを与えて下さい。みことばを通してあなたと個人的な関係をもっと深めていくことが出来ますように。
今日もイエス様の血潮で私たちの罪の性質を洗い流し、清めて下さい。御霊で満たし続けて下さい。
そして、あなたが定められた時を悟り、それに向けて具体的に備えをしていくことができる信仰と行動力を与えて下さい。
このマナメールを読んでくださっている一人ひとりを通して、この国の国家的なリバイバルがもたらされることを感謝します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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