■S:今日の聖書の言葉
ペテロの手紙第一 1章 6-7節

★そういうわけで、 あなたがたは大いに喜んでいます。 いまは、 しばらくの間、 さまざまの試練の中で、 悲しまなければならないのですが、 あなたがたの信仰の試練は、 火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、 イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

■O:今日のコラム
みなさんは日々の自分の仕事・働きに喜びを見出しているでしょうか。石川啄木の『一握の砂』では「はたらけどはたらけど 猶(なお)わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」とも歌われています。本当に毎日毎日やってくる仕事にうんざりしているかもしれません。
また、生きていたら様々な問題がやってきます。ひとつクリアしたと思ったらまた次の問題…。いったいいつ終りが来るのか…。そのように考えておられる方もいらっしゃるかもしれません。それらの問題が今日、この瞬間終わりを迎えることをイエス様のお名前によって宣言します。

今日の聖書のみことばを記したのは、あのおっちょこちょいの弟子のペテロです。彼はイエス様に「どこまでもついていきます!」と言いながらも、すぐにイエス様を三度知らないと言ってしまったその人です。ペテロはイエス様に三度「わたしを愛しますか。」と聞かれ、三度の背きの罪を許されました。そして、その後に聖霊を受け、力強いメッセンジャーとなり、イエス様が言われたように多くの人を励ます人へと彼本来の姿に戻されました。
ペテロに取っては、これらのことは大きな試練の一つだったかもしれません。

時代や人種や場所を問わず、試練というものはやってくるものです。それはまるで浜辺に寄せくる波のように避けることができません。このような試練をペテロは「喜び」と言っています。しかし、試練の真っ只中にいる人はとても喜んではいられないと思います。それでは、なぜペテロは試練と喜びを紐付けたのでしょうか。

それは、ペテロは試練の先に何があるかを知っていたからでしょう。

信仰がいつ試されるかと言えば、順風満帆のときではなく、むしろ絶望の中、試練の中でこそ試されます。揺り動かされるという表現をされることもあります。私たちのからだのバランス感覚が試されるのも、普通に立ったり歩いたりしているときではなく、転びそうになったりバランスを崩した時にさっと元に戻ることができる時にバランス感覚が生かされます。
同じように信仰も試練や問題などで行き詰まった時にこそ本当の信仰の姿が明らかにされるのです。

皆さんは揺り動かしにあっているでしょうか。試練の中を歩んでいるでしょうか。大きな悩みがあるでしょうか。それであれば、それは皆さんは神様に特別に愛されている証拠だと言うことを知って下さい。主は愛する子に懲らしめを与えられます。ヘブル人への手紙12章5節−8節にはこのように書かれています。

「そして、 あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。 」
訓練と思って耐え忍びなさい。 神はあなたがたを子として扱っておられるのです。 父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、 だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、 私生子であって、 ほんとうの子ではないのです」

そうです。私たちが天の父の本当の子どもとされているゆえに今の困難や試練が私たちにあるのです。
人は弱いものなので、そうでもしないと成長しないのでしょうね。しかしこの信仰を試すテストは、今日のみことばによると「火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊い」と書かれています。そして、これらの信仰の試しは「イエス・キリストの現れのときに(あなたがたの)称賛と光栄と栄誉になる」と書かれています。つまり、報いとなるということです。

私たちは今のこの世の終わりをゴールとして歩んでいるわけではありません。私たちが見つめ続けているのは永遠の世界であり、それを成し遂げる事ができるイエス・キリストの十字架です。もしこの世の終わりをゴールとして生きているのであれば、この世のお金、名声、快楽などに心が引かれていくでしょう。しかし、それらは私たちの人生が終わる時にすべて朽ちていってしまうものです。
私たちが天国に持っていくことができる唯一の物は私たちのたましいです。つまり、内なる人、私たちの人格とでも言いましょうか。何を考え、何を感じ、何を判断するか。目に見えないそのようなものです。

ですから、私たちはこの地上でこの「内なる人」の訓練をされているのです。その訓練が今の試練であったり困難です。これらは必然的にやってきますが、それにどのように立ち向かうかが大切です。もし、それらから逃げ続けるのであれば、いつまでもその波は私たちを追いかけてくるでしょう。そして、やがては私たちを飲み込んでしまうかもしれません。
試練が来たときには、覚悟を決めて主と共に真正面から試練に立ち向かうのです。その苦しみは長くは続きません。ペテロもそのような試練は「しばらくの間の試練」と励ましてくれています。

私たちがよく考えなければならないのは「救い」ということです。「イエス様を信じれば救われる」と言われますが、これは事実です。しかし、それで終わりではなく、救いは達成していくものです。

「そういうわけですから、 愛する人たち、 いつも従順であったように、 私がいるときだけでなく、 私のいない今はなおさら、 恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」

(ピリピ 2:12)

わかりやすく言うと結婚と同じです。結婚式だけ挙げて、その後夫婦が別々に暮らしていたのであれば、本質的には結婚生活をしているとは言えません。同じように、イエス様を信じれば永遠の命をいただけますが、それは始まりに過ぎません。救いは達成していくものです。夫婦も様々な葛藤やときには喧嘩などをしながらも話し合い、赦し合いながら本当の夫婦にされていきます。
同じようにイエス様ともみことばを通して様々なコミュニケーションを取ることでイエス様との関係が築かれていきます。そうです。今の試練はイエス様ともっと近く、もっと親密になるためのきっかけとなるのです。そう考えるなら、試練が喜びに変わっていくのではないでしょうか。

■A:考えてみよう
自分には試練が来ても揺り動かされない、本物の信仰はあるだろうか。案外「自分はしっかりした信仰がある」と思っている人ほど、あっさりと試練の時にポッキリ折れてしまう事があります。かつての私がそうでした。
試練を乗り越えるポイントは主(みことば)への従順です。そのためには自分が低くされなければなりません。それには痛みが伴うかもしれません。様々な葛藤があるでしょう。しかし、主はあなたを決して見放さず、見捨てません。この御方に信頼しましょう。主はあなたを様々な事を通して最善の義の道へと私たちを導いてくださいます。
そのためには、まことの羊飼いなる主の御声を聞き分ける耳を持たなければなりません。それはどのようにして持つことができるでしょうか。みことばを朗読することによってです。
毎日詩篇を5章分、箴言を1章分、通読箇所を新旧訳それぞれ1章分、そしてマタイの5〜7章の計11章を音読しましょう。アテフ先生も内なる人を作り変える一つに「みことばの多読」を勧められていました。みことばは私たちのたましいを洗い清め、正しい道を示してくれます。このみことばを黙読ではなく音読しましょう。一見ばからしくつまらないように見えるこの事が主の御声を聞き分ける耳を鍛えます。
テレビやスマートフォンに30分の時間を捧げても私たちのたましいの糧にはなりません。その時間をみことばを朗読することに捧げましょう。主はみなさんの決断と行動を心から喜び祝福されると信じます。

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの大きな愛をありがとうございます。しかしあなたの愛は大きすぎて、時には私にわからないことがあります。あなたを信じ、従っているのになぜ大変な目にあうのか。なぜ試練ばかりやってくるのか。しかし、それは私があなたの本当の子どもとされているからやってくるということを知りました。
ですから、私に忍耐する心を与えて下さい。この試練が喜びとわかっていても、やっぱり辛く、苦しいです。しかし、イエス様。あなたはこの苦しみをも知っていてくださる方です。ですから、どうか私を励まして下さい。共に歩み、導いて下さい。
暗闇に見える試練の道から脱出するために、私の足を照らすみことばの光を与えて下さい。知恵と啓示の御霊によってみことばの中からあなたの声を聞き分けることができますように。
いつも変わらず良いお方である、私たちの最愛の花婿なるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

カテゴリー: マナメール

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