■S:今日の聖書の言葉
ガラテヤ書2章19〜20節(イザヤ書39章)

★『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(ガラテヤ2:19〜20)

■O:今日のコラム
私たちは、毎日悔い改めを持って、自分を捨て、自分の十字架を置い、イエス様についていく者です。私たちはイエス様の十字架によって、十字架をまぬがれる者になったのではありません。そうでないと何のために自分の十字架を負って、イエス様について行っているのか?となってしまいます。むしろ喜んで十字架を受け入れ、その先にある栄光によみがえるという事を信じる者に変えられたのです。イエス様は、十字架を全うする事で、信仰の完成者となられました!私たちの信仰のレースのゴールも十字架を全うする事です。
悔い改めは、日々十字架に古い自分の肉を打ち付け、キリストの血の力を宣言し、捧げていく事です。私たちは、少しずつ、『人をねたむ自分』『人に怒る自分』『人と比べる自分』などを十字架に打ち付け、血の力によって罪からの解放を受け取っています。ここでのパウロの告白は、素晴らしいです。『私は、少しづつ十字架につけられていっています』ではなく、『私は十字架につけられました』だからです。古い自分のすべてが十字架につけられる事を目指しましょう!それが花嫁が主の再臨を待ち望む『マラナタ』の心です。
聖書を原語で見ると『マラナタ』は1箇所しか出てきません。

『パウロが、自分の手であいさつを書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。』(1コリント16:21〜22)

この『主よ。来てください』がマラナタです。『呪われよ』とパウロは安易に口にする人物ではありません。『祝福するべきであって、呪うべきではない』、とはパウロが語ったのです。『呪われる』とは十字架につく事を意味します。

『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。』(ガラテヤ3:13)

古い自分が死ぬのは、神が生きるためです。言い方を変えれば神と一つになるためなのです。主と一つになる事を求めておられますか?毎日、熱心な悔い改めをもって、死と葬りと復活に預かる者、新しい創造のわざに預かる者となり、『私はキリストとともに十字架につきました』と大胆に告白する者となっていきましょう!

■A:考えてみよう
熱心な悔い改めを毎日持つ

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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