■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書31章6節(第二コリント7章)

★ イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。

■O:今日のコラム
私たちが試練を試練と感じるのはどのような時でしょうか。仕事のトラブル、友人との人間関係のこじれ、経済の不足、夫婦関係の問題、子育ての行き詰まり、病気etc…。これらの問題は、生きている限り次々と起こるものです。

問題に直面する時、多くの人は、なぜそのような問題が起こったのか、誰の原因か、また解決方法について考えます。しかし、それは人間的な解決策でしかありません。アダムは罪の過ちをエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。また、彼らは「神から遠く離れる」という究極の解決策を取り、問題から逃れようとしました。

しかし実は、このことが彼らにとって最大の試練の始まりとなったのです。主の臨在から遠く離れることほど苦しいことはありません。彼らは自分たちの解決方法ではなく、主の前に行くべきでした。

頭では主の臨在の中にいることが自分にとってどんなに幸せだろうと分かっていても、どこかで「罪を持ったまま主の前に出る事は出来ない。」「こんな罪深い私を赦してくれるはずがない。」「自分の生き方をもうちょっと変えてから…」「自分には祝福を受ける価値が無い」と、素直に主の前に出て行けず、葛藤を覚えることがあります。父の家へと続く一本の道が開かれているのに、いつも右へ左へと回り道をし、なかなか「主の臨在の中」に行くことが出来ない…。そのような経験をしたことはないでしょうか。

私たちの地上での信仰生活は、父に反逆し、さまよい、悔い改め、父の家へと帰って行く放蕩息子の旅路と似ています。彼は、お金を使い果たし、何もかもを失い、人生のどん底まで落ちました。しかし全てを失ったその時に、父の家を思い出すのです。

彼は、まっ暗闇の中に輝く一筋の光を見、父の家を目指して前へ前へと進み続けました。放蕩息子が父から離れて向かった場所は、「遠い国」と記されているので、一日や二日で帰れる距離ではなかったはずです。体はやせ細り、疲れ果て、ヨレヨレの姿でした。途中で、「自分はこんなに惨めで汚い人間だ。父はこんな自分、受け入れてくれないだろう。」と引き返すことも出来たかもしれません。しかし、放蕩息子は、父の家の温かさを思い出しながら、何もかも失った状態で父のもとへ一心に歩き続けました。

闇が暗ければ暗いほど、光であるお方を見出すことが出来ます。また、出口がないと思う時にこそ、主がどのようなお方であるか体験するのです。

やがて放蕩息子は父の家に着き、父の大きな両手で抱かれ、一番良い衣を着せられました。一番良い衣とは、御父の最も愛する御子の十字架で流された血潮であり、それは同時に義の衣です。私たちは主との深い交わりの中で、血潮による赦しを受け、造り変えられていくのです。自分で自分を正すことなど出来ません。

主の臨在から離れることは私たちの最大の試練ですが、御父にとっても、愛する子どもがご自身から去っていくほどの大きな痛みはありません。父の願いはこうです。

「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。…」(イザヤ書30:18)

「…主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:7)

父は、愛する子どもたちを両手で抱きしめたいのです。父の愛は、失敗、間違いを見ません。私たちの天のお父さんは、神の子どもたちが父の家に戻って来るのを今か今かと、高いところから目をこらし、身を乗り出して見ていて下さっているのです。

父の家へと続く、一本の狭き道。それは、主が通られた苦難の道かもしれません。しかし、涙と共に歩むその道の先には、愛に満ちた天のお父さんが両手を広げて待っておられるのです。

父の家に帰りましょう。

■A:考えてみよう
日々悔い改めをもって主の前に出る。

刻一刻と、救いの時は近づいています。日々目を覚まし、恐れおののいて自分の救いの達成に努めようではありませんか。
義の衣を着せられ、我が内にキリストの姿が回復していきますように。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ひさえ 】

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