■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書23章22節〜24節(使徒の働き23章)
わたしは近くにいれば、神なのか。
ー主の御告げー
遠くにいれば、神ではないのか。
人が隠れた所に身を隠したら、
わたしは彼を見ることができないのか。
ー主の御告げー
天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
ー主の御告げー
■O:今日のコラム
みなさんは、学校の授業で突然「はい、今日の授業は自習!」と言われ、先生が出て行ってしまったらどうしていましたか?先生の言葉通り自習する人がほとんどかもしれませんが、私は自分の好きなことをし、友だちと雑談で盛り上がり、挙句の果てに隣のクラスの先生に叱られるというパターンを繰り返していました。先生がいないと、こうなってしまうのも仕方ないですよね。
私たちは誰か自分より上の立場の人がいないとだらけたり、サボったりする傾向があるのではないかと思います。職場においても、上司がいなければ、いつもより緊張感が無いまま仕事をしてしまうこともあるかもしれません。
私たちは弱いので、「見られていなければいいや。」と考えてしまいます。また、自分が失敗したり間違いを犯してしまった時、それを「バレなければいいや」と隠してしまうという傾向があります。それこそ、罪の性質から来るものです。善悪を知る木の実を食べ、罪が入り目が開かれたアダムとエバも、神様の御顔を避けて隠れました。
自分にやましいことがなければ隠れることもしなくなるはずです。何かバレたくないものがあるからこそ隠れようとするはずです。イエス様を信じる前は、私たちのうちにはいつも罪が満ちていました。しかし、イエス様を信じた人々はその罪が赦され、永遠の命が与えられます。そのような人は罪の奴隷の下にはなく、キリストの自由の内に生きる権利があります。私たちの一番大きな問題はすでに処理済みです。であれば、私たちはもう何からも隠れる必要がないのです。
神様は私たちの心の奥深くまで、いにしえからとこしえまで、全てをご存知です。そのような神様から隠れようとすること自体が無謀です。神様は言われます。「天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」
いっさいのものをいっさいのもので満たす方である神様に対して、何も隠し事をせず、いつでも素直に語らい合える関係になって行きたいですね。
■A:考えてみよう
心のなかに何かやましいことはありませんか?自分の行動の中で、神様に見られたくないこと、その場所に神様にいてほしくないことはありませんか?しかし、神様はその全ての所におられ、全てをご覧になっています。あきらめましょう。
私たちは人間なので間違いを犯してしまうこともあるでしょう。その時はダビデがしたように、すぐに神様の元に行き、「ごめんなさい!」と言えるようになりましょう。そして、神様となんでも自然に語り合える関係を築いて行きましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】
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