■S:今日の聖書の言葉
ルカの福音書7章37〜39節, 47節(イザヤ書7章)

★すると、 その町にひとりの罪深い女がいて、 イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、 香油の入った石膏のつぼを持って来て、
泣きながら、 イエスのうしろで御足のそばに立ち、 涙で御足をぬらし始め、 髪の毛でぬぐい、 御足に口づけして、 香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、 これを見て、 「この方がもし預言者なら、 自分にさわっている女がだれで、 どんな女であるか知っておられるはずだ。 この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。

だから、 わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。 それは彼女がよけい愛したからです。 しかし少ししか赦されない者は、 少ししか愛しません。 」

■O:今日のコラム
私の中にはイエス様をもっと愛したい。もっと親しい関係になりたいという切なる願いがあります。祈りの中でも「イエス様、あなたをもっとはっきり見たいです!もっと近く感じたいです。今私が見て感じている現実の世界よりもっと現実味を持って私に現れて下さい」と祈ったりもします。
目を閉じてそのような祈りをして、「もしかしたら目を開けたら目の前にイエス様が立っておられるかもしれない」と思ってそっと目を開けると、何もない、いつもの風景があります。そしてさらにイエス様を求めて祈っています。

しかし、以前は私はイエス様の愛というものが全くわかりませんでした。しかし、私が深い悔い改めへと導かれていった時、少しずつイエス様の愛というものがわかってき始め、イエス様に対する飢え渇きが増し加わってきました。

今日の聖書の箇所では、罪の赦しについて書かれています。登場人物は主に罪深い女とパリサイ人です。このパリサイ人とは十二弟子のひとりの熱心党員のシモンです。

イエス様は福音書の中でこのような強いコントラストを持ってたとえを語られています。一般的な視点ではこの二人は下記のような捉え方をされるでしょう。

パリサイ人 = 律法を厳格に守っている義人
罪深い女 = 律法を犯して罪を犯している罪深いもの

この事は事実です。しかし、イエス様は事実のさらに奥の真理を見られるお方です。
イエス様はこの二人の今までの事よりも、イエス様に出会った後の行動、つまり彼らの実を見られていました。
イエス様の目に、この二人はこのように映っていたことでしょう。

パリサイ人 = 自分を義として内にある罪を認めない頑ななもの
罪深い女 = 自分の罪を認め、その赦しを求める心砕かれたもの

詩篇51章17節にはこのように書かれています。

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、 悔いた心。神よ。 あなたは、それをさげすまれません。 」

主が求めておられるのは砕かれた心を持ったものです。
そして、この二人の結果は次のようです。

パリサイ人 = 罪深い女を見てつぶやく = 裁きの罪
罪深い女 = 涙で御足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った = 悔い改めの実

このエピソードの中でのポイントは、自分の罪深さをどれだけ知ることができるかということだと思います。
もし、パリサイ人のように、「自分は正しいことを行っている」と思い込み、自分の中にある自分ではどうすることもできない罪の性質を認めないなら、私たちは神様を少ししか愛せないものになってしまいます。
結局のところ、パリサイ人は目の前に彼らが熱烈に待ち望んでいた救い主がおられるのにそれを認識することができなかったのです。彼らの罪が神を見えなくしたのかもしれません。

「見よ。 【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、 聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、 あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、 あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。」(イザヤ59:1-3)

聖なる神であられるイエス様の光が私たちの中に差し込んでくるなら、私たちの内の罪が明らかにされます。

「みことばの戸が開くと、 光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)

罪深い女はイエス様の聖さに触れた時、居ても立ってもいられなくなったのでしょう。
パリサイ人はイエス様に触ろうともしませんでした。しかし、罪深い女は自ら進み出て、主の御足を拭われました。
それは結局、イエス様に本当の意味で出会っているか否かという問題なのではないかと思います。

もしも私たちが本当にイエス様と出会ってしまったら、私たちはその聖さ、麗しさにただひれ伏すことしかできないでしょう。そして、真の悔い改めが生じて来るはずです。

卵が先か鶏が先かという問題ではないですが、本当はイエス様に出会っていただくのが一番はやい悔い改めの道です。しかし、私はそうではないので、日々みことばによって自分の内にある罪の性質を示していただき、そこから悔い改めに導かれ、やがでイエス様と人格的に交わることができてきているように思えます。

もし、私たちのうちにある罪を少ししか認めないのであれば、少ししか神を愛することはできないでしょう。しかし、みことばによって魂が刺し通され、深い悔い改めと導かれるなら、主をもっと愛することができるようになるでしょう。

今日もみことばの中から主の考えと自分の考えのズレを示していただき、天のお父さんの家へと向かうシオンの大路を歩んでいきましょう。

■A:考えてみよう
真の悔い改めを求めよう。「自分はダメだ」というのは単なる後悔です。真の悔い改めはその後に上からの喜びがやってきます。
そのためにはみことばに打たれる経験が必要です。それがすなわちイエス様と出会うということです。
より多くイエス様を愛するため、知恵と啓示の御霊を求めてみことばを音読し続けましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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一つのコメント


  1. 緒方恵子 より:

    メッセージ感謝します
    よろしくお願いします

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