■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書6章11〜13節
★私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」
■O:今日のコラム
この前の節には、イスラエルの民が立ち返ることがないように、彼らの目、耳を閉じ、悟って悔い改めることがないようにと、神様が命じます。
神様、ひどいと思うかもしれませんが、この前、また、ここまで歩んできたイスラエルの民の歴史を見ると、神様が、どんなに憐れみ深い方であるか、皆さん、理解できるはずです。
神様は、幾度も悔い改めるチャンスを与えましたが、イスラエルの民は、ずっとずっと自分たちの意思で悔い改めを選択せずに、神様に背き続けました。エジプトの王、パロのようですね。神様も、パロに悔い改める機会をたくさん与えましたが、それに応えなかったがために、神様は、彼の心を頑なにしました。
けど、神様は、イスラエルの民が、一生、立ち返ることなく、癒されないことを願っているのではありません。
私は、このイザヤの聞いた質問が好きです。
「主よ、いつまでですか。」
イザヤは、ここまで悔い改めない、汚れた民は生きる事ができない存在であることを、彼は理解していました。特に、聖なる神を目の当たりした彼は、自分は死ななければならないと言ったくらいですから。
だから、彼の同胞であるイスラエルの民も主の前では死に値する、裁きを受けるにふさわしいと知っていたはずです。
けど、それでも、彼は、主がイスラエルの民を回復させることを信じていたと思います。神様がどんなに憐れみ深く、良いお方であることを信じていたと思います。だから、彼は、この質問ができたと私は思います。彼には、この神様には、希望があることを見出していました。
そして、神様が答えたのが、今日の箇所となっていますが、主はご自身のことばに、本当に忠実です。
実際にイザヤが預言した数年後には、エルサレムは破壊され廃墟となり、人々はバビロン捕囚として遠い国につれていかれました。イエス様がいた時代、その時はすでにユダヤ人達はエルサレムという町に戻って住んではいましたけど、ローマの支配下にいました。なので、マタイ13:14-15でイエス様も、このイザヤ6章を引用されました。
しかし、神様が言われたように、バビロン捕囚で、一度苦を味わっているので、少数の民は、気がつくようになってきます。そして、イエス様が来たことにより、ますます多くの人々の目が開かれていき、イスラエルの回復が始まりました。ここの最後に言われている「聖なるすえ」。それは、今の時代でいうとイエス様をメシアとして認めているユダヤ人達です。
イスラエルが建国してから、急激に多くのユダヤ人たちが、イエス様をメシアだと悟り、悔い改め、癒されています。イザヤを通して、神様が命じた預言。イスラエルの民の目が開くことがないようにという預言は、もう時がきて、終わりを告げました。今は、彼らが目を開き悟れる時代に入っています。主の愛される民、ユダヤ人のために、今日もとりなし祈っていきましょう。
■A:考えてみよう
皆さん、神様はどんな状況でも回復を願い続けている、また回復を見据えている神様だと信じていますか?絶望しないでください。無理だと思わないでください。預言者イザヤのように、神様を信頼し、いつまでですかと神様に聞き続けましょう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 かよ 】
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