■S:今日の聖書の言葉
ヨシュア記23章11節
あなたがたは、 十分に気をつけて、 あなたがたの神、 【主】を愛しなさい。
■O:今日のコラム
ヨシュアが晩年になって、イスラエルの民に告げた言葉です。この箇所、英語のある訳では「十分に注意をして、あなたがたの神、主を愛しなさい。」と書かれています。
「十分に注意して、神を愛する」とは、とても不思議な表現のように思われます。
私は自分の家族を愛しています。けれども、時折、自分の愛はきちんと行動となって子どもたちに、また夫に表されているだろうか。自分の愛は家族に伝わっているだろうか、と振り返る時があります。
忙しくしていると、心の余裕を失い、会話がないがしろになってしまったり、ついつい放っておいてしまう時があります。それに気付く時にはつとめて、子どもと目線を合わせて話を聞く時間をもったり、夫に日頃の感謝を敢えて言葉にして表したりします。神の家族も同様です。愛しているつもりでも、それが十分に行動に表されておらず、自分の愛の足りなさを反省することが、自分はよくあります。
主に対する愛も同じではないかと感じます。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛すること、それは何気なく出来ることではありません。ヨシュアが言うように、自分自身の心を探り、思いを探り、日々の行動を振り返り、自分が主を愛しているのだろうかと、十分に注意をしなくてはなりません。
イエス様はヨハネの福音書の中でこう言われています。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、 あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)
私たちがイエス様を愛しているというのなら、みことばを愛するはずです。そのことが重荷とはならないはずです。もし、イエス様を愛することが思いのほか負担に感じるのならば、まず初めに私たちを愛してくださったその愛をもっと体験し、その愛の深さを体験することが必要かも知れません。
結婚の最初の誓約の時に「健やかなる時も病める時も、富める時も貧しい時にも」という表現があります。イエス様は十字架にかかられる前に弟子たちに次のような言葉を語りました。
「けれども、 あなたがたこそ、 わたしのさまざまの試練の時にも、 わたしについて来てくれた人たちです。」(ルカ22:28)
私たちも、どのような時にも主を愛することを選び、主にこのような言葉をかけていただきたいと願います。
私たちはイエス様を愛し、イエス様の足あとにならいたいです。自分にとって犠牲が伴う時であっても、いかなる場合でも、みことばを愛することを選び、礼拝することを選び、主に仕えることを選ぶ時に、豊かな神の恵みを体験することと信じます。
■A:考えてみよう
自分の心の王座は誰のものだろうか?
■P:祈り
主イエス様、私は主を愛しているでしょうか?あなたにその愛が伝わっているでしょうか?その愛に行いが伴っているでしょうか?
どうぞ、私の心を探り、みことばによって光を照らし、聖霊様によって気づかせて下さい。
今日も主の御前にひれ伏し、こう告白します。私の主はイエス様です!私の救い主はイエス様です!私の王はイエス様です!あなたが私の心の王座に座して下さい。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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