■S:今日の聖書の言葉
コリント人への手紙9章18節(詩篇53篇)

★『では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。』

■O:今日のコラム
自分の持っている当然の権利を、主のために捨てる事には喜びが伴います。
誰でも、子どもが「パパのせいだよ」と言ってふくれている様子を見て、実際には子どもに多分に落ち度があっても「ごめんね。パパが悪かったね」言って、強気に出れる権利(?)を捨てて謝る事に喜びがあるはずです。
リビングバイブルでは、『このことによる喜びこそ私の報酬なのです』とさえあります。それは、このことでゴールであるイエス様に近づくからです。だから、続く23〜27節にはこうあります。

『私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。』(1コリント9:23〜27)

パウロは幾人かでも救うために権利を用いすぎず、自分の権利を放棄して御言葉のために仕えました。主の御心がなされるために、主が認めてくれている権利を放棄することは、私たちがイエス様というゴールに到達し、朽ちない冠を得るために必要な事です。空を打つような拳闘でなく、ゴールを見据えた競争を走るために必要です。
イエス様もご自身の当然の権利を捨てて、仕えることを選ばれました。

『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、』(ピリピ2:6〜7)

当然の権利を主張する事が、人をつまづかせるなら、その権利を捨てるという話の流れが7章からずっと続いていた流れです。ここにその結論があるのです。
たとえば『自分が頑張っているのに、人がやっていない』という時に、人にキツくいう事も出来るでしょう。頑張っている人は、そう言って当然とも思えるでしょう。しかし、人が建てあげられるためにマイナスであるなら、その権利を捨ててしまいましょう。私たちに与えられている権利には、それを捨てる権利もあるのです。


■A:考えてみよう

人の救いの解放のために、自分の権利を捨て、へり下って仕える者となったるイエス様に習いましょう!
人の救いのために仕える事を通して、自分を無にする事が出来たイエス様というゴールに行ける事を、信じその喜びを報いとして受け取りましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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