■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書18章4節(使徒の働き18章)
★ 陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
■O:今日のコラム
今日の箇所から、私は二つのことを学びました。
1.私たちは主の器である
2.主は私たちを作り替えてくださる
1.私たちは主の器
皆さんはお気に入りの道具を何か持っていますか?
私はZ社の三色ボールペンが大好きです。インクがなくなっても替芯を買って来て、もう何年も使っています。
今一本行方不明ですが、一時は、 会計の仕事用、英語クラス用、外出用と 3本持ち、それぞれに名前をつけて可愛がっていました(笑)。私の必要にぴったりで、インク漏れや、かすれがなく、とても使いやすいのです。
私たちは天の神様の子供であり、神の国の王であり祭司、またキリストの花嫁であると同時に、神様が用いてくださる器である、と聖書に書かれています。
テモテへの手紙 第二 2章20節-21節
大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
私が、字を書く必要があるとき、いつもあのお気に入りのペンを探し、それに手を伸ばすように、神様は御心を行う時に、私たち一人一人、という器を探して、そして、ああ、私の器があった。この器を用いよう!と用いてくださるのです。
以前、慎悟先生が、私は神様のぞうきんになりたい。いつでも神様が必要なとき、すぐに使われるものになりたい、と言われていたように思いますが、神様の使いやすい器、神様の必要にあった道具となるなら、神様は私たちをよく用いてくださるのだと信じます。
2.主は私たちを作り替えてくださる
神様が使いやすい器、道具とは、どのようなものでしょうか。
3月3日の第二礼拝の中で、ウヒョン監督は、「ろばの子」の話をしてくださいました。イエス様は柔和でへりくだった王で、へりくだったろばの子に乗ってエルサレムに入場された。イエス様は今も、へりくだった者に乗って、運ばれる、という言葉がとても心に残りました。
ろばが、牧場の好き勝手なところで草を食べず、主人の飼い葉桶からだけ食べるように、「へりくだった」とは、自分の好き勝手なことをする人ではなく、主人なる神、お父さんの思いだけを求め、行う人だと。
自分を見ると、そうなりたい、という願いはあっても、まだまだそこまでいっていない、というのが現実です。
しかし、ハレルヤ! 今日の箇所で見たように、陶器師なる主は、私たちを、作り替えてくださる方なのです。
■A: 考えてみよう
天の父は、地上で御心を行う器を探している。私は主の御心を行いたいと願っているだろうか。
私は、主にとって使いやすい器だろうか。主の必要のためだけに、取り分けられた器となっているだろうか。
■P:祈り
天のお父様。イエス様の十字架によって、罪を赦され、神の子とされたことをありがとうございます。
永遠の命を与えてくださっただけでなく、今この地上においても、あなたの御心を行うために、用いたいと、願ってくださってありがとうございます。
陶器師主よ。私はあなたの手の中の粘土です。あなたの御心を地上で行うために、私をあなた用の器としてとりわけ、あなたの使いやすい器に、作り替えてください。
イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
【 とも子 】
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