■S:今日の聖書の言葉
民数記21章9節(民数記22章)
★モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
■O:今日のコラム
まず、神が死をもたらすほどの蛇を民の中に送られた理由を考えてみましょう。それは、5節にあります。
「民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
「このみじめな食物」とは、神がご自分の民に与えた「マナ」のことです。この「マナ」 は神が荒野で民に与えた恵みの食物でした。その恵みに対して、民は「飽き飽きした」などと神とモーセにつぶやいたのです。神はこれに対して怒られました。
「マナ」は神の口から出ることばであり、その言葉を語るために来られた神の御子ご自身です。神の語られることばに対して、飽き飽きしたものだとつぶやくならば、それは霊的飢饉を自らに招き、魂に痛みをもたらし、やがては霊的な死へと至らせます。
私たちもイスラエルの民のように、日々神が与えて下さる恵み(マナ)を「飽き飽きした食べ物」と小さく扱うなら、それは霊的ないのち取りとなりかねません。
しかし、主は決して見捨てないお方。そのような霊的に死に行く民に対して救いの道を用意して下さるのです。
「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(8節)
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3章14~15節)
人類の罪の身代わりとして神の怒りを受けた御子イエスは、同時に、私たちを救うお方です。「燃える蛇」は神の怒りと同時に、神の燃える愛のしるしである十字架のキリストを表しています。
神は燃える愛、ご自身の心臓が爆発するほどに私たちを愛して下さいました。今、霊的に死んでいた状態にあるならば、天から下って来られ、十字架に上げられたイエス様を仰ぎ見ましょう。尽きることのない霊的源泉、私たちの魂を豊かに満たす、主イエスの血潮の注ぎを受け取ろうではありませんか。
具体的に血潮を受け取るにはどうしたら良いでしょう。
いけにえの子羊をほふったその瞬間、血が地面に流れ落ちます。イスラエル人はその血を器に取り置きます。しかしその血が器の中にある限りは誰をも救うことが出来ません。ヒソプの枝を使って家のかもいと二本の門柱に塗り付けられて初めて、その家の中にいる家族は守られるのです。
私たちの過ぎ越しの子羊なるイエスキリストは、もうすでに私たちのためにほふられたのです。キリストの血は、十字架上で私たちのために流されました。しかしこの事実そのものだけでは、何の効力もありません。血が「器」という名の神学、知識の中に留まり続けるなら、何の役にも立ちません。その血が必要な場所に正しい方法で用いられる時、 初めてその効果を発揮するのです。
旧約時代、イスラエル人は血を必要な場所に塗るための道具として、ヒソプの枝を使用していました。新約時代においては、私たちは証しのことばを用いるのです。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(ヨハネの黙示録12章11節)
神の言葉がイエスの血について何と語っているか、口を通して告白しないなら、血潮から何の益を受けることも出来ません。ただ知っているだけではなく、口を通して告白されなければいけないのです。
■A:考えてみよう
主イエスの血潮の12の宣言、御言葉の約束を、毎日口で告白しましょう。
■P:祈り
「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」(詩篇51篇7節)
【 ひさえ 】
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