■S:今日の聖書の言葉
民数記16章48説(民数記15章)

★彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、 神罰はやんだ。

■O:今日のコラム

今日の聖書の箇所から記事を書こうとした時、ふと二年前の自分の書いた記事に目が止まりました。
https://bit.ly/1SYyy0F

全く同じ箇所を選んでいたことに驚きです。同じことをお伝えするのもどうかと思いましたので、今日はこの事件の別の角度を見ていきたいと思います。

民数記16章では、たくさんの事件が同時多発的に起こります。その発端はゲルション族のコラとルベン族のダタン、アビラム、そしてオンと共謀してモーセに立ち向かったということです。
しかも、民衆の中から選ばれた250人の指導者を引き連れてです。

詳しく見ると、彼らのモーセに対する言い分はそれぞれ違っていますが、共通して言えることは神が立てた権威に逆らっているということです。

「人はみな、 上に立つ権威に従うべきです。 神によらない権威はなく、 存在している権威はすべて、 神によって立てられたものです。 したがって、 権威に逆らっている人は、 神の定めにそむいているのです。 そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ローマ13:1-2)

権威に逆らうということは、神に逆らうことです。
この箇所を見る時、それぞれの言い分は違いますが、イエス様に逆らった祭司長や律法学者のことを思い起こさせられます。

神が立てた権威であるモーセに反逆した結果、次の事が起こります。

– コラと仲間が生きたまま地の底に飲み込まれる。(32節)
– 指導者250が主の火によって焼きつくされる(35節)
– 民の内に神罰が下される(47節)

この記事を読む時、私たちとは関係ないと思ってしまうかもしれません。なぜなら、私たちは権威に従わなくても死なないからです。
しかし、この事を恵みの基準から見るのであれば、そうではありません。実際的に私たちの肉体は死なないかもしれませんが、私たちの魂は神に敵対して、神様と反対方向に歩いて行ってしまいます。
この事を聖書では「悪い行い」と言います。

「しかし、 口から出るものは、 心から出て来ます。 それは人を汚します。 悪い考え、 殺人、 姦淫、 不品行、 盗み、 偽証、 ののしりは心から出て来るからです。」(マタイ 15:18-19)

この「心」が全ての考えの根です。ですから、私たちは心を見張る必要があります。

「力の限り、 見張って、 あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。」(箴言4:23-24)

誰でも、権威に従うことに抵抗があることでしょう。しかし、その時こそ、私たちは自分の心を点検する絶好の機会とすることが出来ます。
自分の内なる人の死んだ部分(権威・神に従わない部分)と、生きている部分(権威・神に従う部分)を、みことばを通してはっきりと見分け、その間に立って祈り、これ以上なすがままにして滅び行く部分がないようにしていきましょう。

■A:考えてみよう

私はなぜ、権威に反発してしまうのだろうか。どういった時に権威に逆らいたくなるだろうか。
もしかしたら、それは相手の問題ではなく、自分の内なる人の問題がその人に鏡のように映っているだけかもしれません。

「また、 なぜあなたは、 兄弟の目の中のちりに目をつけるが、 自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 兄弟に向かって、 『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。 見なさい、 自分の目には梁があるではありませんか。 偽善者よ。 まず自分の目から梁を取りのけなさい。 そうすれば、 はっきり見えて、 兄弟の目からも、 ちりを取り除くことができます。」(マタイ 7:3-5)

それでは、どのようにすれば自分の目から梁を取り除けることができるのでしょうか。
それは、イエス様の血潮によってです。

イエス様の血潮を宣言する祈りは自分の内なる人をみことばによって作り替えていきます。そして、目に対しても宣言する部分があります。
https://artofgod.jp/?pid=101404761

私たちの心と体の各部位に血潮を宣言して、神に、そして立てられた権威に従順する者となりましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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2 個のコメント


  1. TAKA7 より:

    権威に従うことは大事なことです。教会でも神父や牧師、またはリーダーがこの権威にあたるのでしょう。
    ただ、この権威が正しいのかは、どのように判断すればよろしいのでしょうか。
    イエス様やモーセを主体にすれば、明らかに神から指名された方、即ち神が立てた権威であることはわかります。
    でも、実際の教会において、必ずしも牧師言っていることが、正しいのでしょうか。牧師も神父も人間です、間違えも勘違いも、または悪に染まることも多いにあるのです。教会のお金を自分の思いに権威者である牧師が決めて使うこともあるでしょう。それは・・・と疑義を申し出た場合、権威者に従わない=神に逆らったことになるのでしょうか。教会のお金は、尊い神様の物です。それを私欲に使うことは、権威者であっても大きな大きな罪であると私は思います。
    また牧師が「権威者である私に従え・・・」ということを言って強制させたら、それは神の名を私欲に使った神への冒涜になるのではと感じます。
    教えてください。

    • 管理者 より:

      TAKA7さん、コメント頂きありがとうございます。
      おっしゃる通り、牧師もひとりの人です。間違いも犯すでしょう。
      しかし、わたしはみことばに従いたいと思っています。

      「人はみな、 上に立つ権威に従うべきです。 神によらない権威はなく、 存在している権威はすべて、 神によって立てられたものです。 したがって、 権威に逆らっている人は、 神の定めにそむいているのです。 そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ローマ13:1-2)

      もし、このみことばに私たちが従った上で、上に立つ権威の者が間違っていたとします。
      すると、裁かれるのは私たちではなく、上に立つものになるのではないかと思うのです。

      牧師は自分の弟子を作るのではなく、キリストの弟子を作っていくのが本当の姿だと思います。
      それであれば、もし、牧師が「権威者である私に従え」と言って聖書に書いていない事を行っていたのなら、やはりこれも牧師が裁かれるのではないかと思います。

      渡しの場合ですが、上に立つものが間違っていたら、真っ先に批判するのではなく、暫くの間黙ってとりなして祈ります。
      その上で、みことばの約束を受け取り、なお間違っているという思いがあるなら、二人だけの時間を作ってもらって、そこで正直に自分の意見を伝えます。

      これでお答えになっているでしょうか?

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