■S:今日の聖書の言葉
レビ記16章15節(使徒16章)

★アロンは民のための罪のいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。


■O:今日のコラム

私たちが日々、何に目を向けているか、それは本当に大切なことだと思います。
旧約の時代、罪の贖いをするために、大祭司が年に一度、動物の血を携えて、至聖所に入らなければなりませんでした。そして、その血が、契約の箱の上、両端に置かれたケルビムの顔が向けられた「贖いのふた」の上に注がれたとき、主の臨在が満ち、神との交わりを持つこと、主の御声を聞くことが出来たのです。しかし、動物の血は、私たちの罪を完全にきよめること、永遠に贖うことは出来ません。
イエス様が、ただ一度、ご自身の血により、完全な幕屋に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。その血によって、私たちの罪は赦され、私たちは聖なるものとされ、至聖所へ入ることが出来るようにされたのです。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:19-20)

イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)

イエス様が私たちの道となって下さいました。私たちはイエス様の裂かれたからだを通り、私たちへの愛ゆえに流された、その血潮の注ぎかけを受けて、父のみもとへ行くことが出来るのです。

私は、いつも礼拝の中で、至聖所へと、父のみもとへと行きたいと願います。けれども、私の内には、罪の性質があり、弱さや痛みがあります。人を赦し、その人を愛する愛も足りない者です。このような自分の内を見るとき、私は主の御前に立つのにふさわしくない者だと思います。自分の力では、きよくなることも、人を赦し、愛することも出来ないのです。しかし、イエス様の血潮にこそ、解決があります!

この数ヶ月の間、毎日の生活で、イエス様の血潮を宣言し、祈る時間を持つなかで、私の内に本当の解放と自由、今まで以上に深い主の臨在と圧倒的な主の愛が私を覆ってくださるのを経験しています。これはイエス様の血潮を自分のものとして、受け取ることから始まります。
日々、私たちが目を向けるべきは、イエス様の血潮、私たちのために成し遂げて下さった永遠の贖いです。

■A:考えてみよう
今日、私たちの内に目を向けるのではなく、完全な、永遠の贖いを成し遂げられた、イエス様の十字架に目を向け、イエス様の血潮を宣言し、受け取り、祈る時間を持っていきましょう。
私たちは、すでに、イエス・キリストの血によって、罪赦され、きよめられ、贖われた者、王であり祭司、天の父に愛されている神の子どもです。イエス様の血潮を受けたなら、大胆に、今日も天のお父さんのもとへ行きましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ささまな 】

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