■S:今日の聖書の言葉
レビ記3章1節(使徒の働き3章)

★もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前ににささげなければならない。

■O:今日のコラム
この「和解のいけにえ」。このことによってもたらされるものは、神との和解であり、神とのシャロームです。

イスラエルの民は数々の罪によって神との敵対関係になりましたが、神はこの「和解のいけにえ」を通して神と人との和解が成される道を、イスラエルの民に与えられました。
けれども、それだけでは完全では無かったので、イエス様は

「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)

主のその流された血潮によって、私たちは、神との和解が成し遂げられました!ハレルヤ!

「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(コロサイ1:22)

ですから、もうこの時代の人たちのように傷の無い牛や羊を捧げる必要は無くなりました!とてつもない恵みです!

ですから、私たちはその十字架でなされた御わざをたたえ、主に感謝のいけにえ、礼拝を捧げます。

私は以前は“今の時代で良かった。罪を犯して神様と敵対するたびに、牛を捧げていたらどんなに大変だったか…”と思っていました。
けれども、この「和解のいけにえ」をよく見た時に、私の考えは変わりました。
「和解のいけにえ」、ささげ物である牛に傷が無いかよく見て調べ、そして、その脂肪(1番良い部分)をしっかりと切り分けて捧げる。

私たちが主に礼拝を捧げる時、イスラエルの民が傷の無い牛の、しかもその最上の部分を主に捧げたように、私たちは真心から主を愛し、自分の心の最上の部分を捧げ、真実な心を持って主に礼拝を捧げなければなりません。
牛であるなら、傷が無いかどうか目で見て調べ、また焼く時にも脂肪の良い部分と、そうでない部分を分け、目で見て明らかに確かめられますし、逆に誤魔化すことも出来ません。

しかし、私たちの心の中は、ささげ物である牛を、肉眼で見て探るほどに入念にチェックされることがないのではないでしょうか。
「いけにえ」とは、“犠牲”であり、原語では「殺す」という意味も含まれます。犠牲が伴わないものは礼拝とは言えないのではないでしょうか。

日曜日の礼拝に出席していても、自分の肉なる部分が依然として自分の心の王座に座していて、自我に死ぬことがなければ、、、自分がやりたい時に、やりたい程度に捧げるものならば、それは礼拝とは呼べないかも知れません。
礼拝はむしろ、私たちの日々の歩みの中でも常に持つことが出来るものです。
礼拝とは、主を愛するゆえに、自分の肉なる罪を悔い改め、汚れを捨てること。この世をも、この世にあるものをも愛することをやめること。
御ことばに聞き入り、御霊によって心が変えられていくこと。
強いられてやるのでもなく、儀式としてやるのでもなく、主に自分自身を捧げること。心も経済も時間も働きも、「いけにえ(犠牲)」として御元に捧げること、それが礼拝です。

牛の体を調べるよりも、心の内を、また自分の歩みを調べることの方がはるかに難しいかも知れません。
けれども、私たちが心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、自分の内の最上のものを捧げる時、それは御国で何よりも価値のあるものとなることを信じます!
英語で礼拝は“worship”です。“worth”つまり価値あるものを捧げること、それが礼拝です。
毎日の歩みの中で、私たちはいつも最上のもの、自分にとって価値あるものを主に捧げていきましょう。

■A:考えてみよう
私にとって価値あるものは何だろう。
私は最上のものを主に捧げているだろうか。主に捧げるものが自分のもてる最上のものかどうか、いつも吟味して捧げよう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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