■S:今日の聖書の言葉
ヘブル人への手紙 9章4節(ヨブ37章)

★まして、 キリストが傷のないご自身を、 とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、 どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者とすることでしょう。

■O:今日のコラム
ヘブル人への手紙9章は、この章だけで1冊本が書けるのではないかというほどの多くの重要な事がたくさん書かれています。それは幕屋に関することです。
簡単に一つだけお伝えするなら、幕屋のヘブライ語は「ミシュカン」と言います。ヘブライ語で「ミ」は前置詞の「at」に当たります。「シュカン」は「シャカン」の活用形です。「シャカイナ・グローリー」の「シャカン」です。これは臨在を意味します。つまり、幕屋は「主の臨在のある場所」という意味があります。そこにある器具にも本当に重要な意味があるのですが、ヘブル人への手紙の著者も言うように「しかしこれらについては、 今いちいち述べることができません。」(5節後半)。ぜひ、レビ記、そして出エジプト記を読んで、幕屋の啓示を受け取ってください。
この幕屋の始まりは、モーセがシナイ山で神と出会った時に見せられた天の様子の写しです。

「ですから、 天にあるものにかたどったものは、 これらのものによってきよめられる必要がありました。」(23節前半)

「キリストは、 本物の模型にすぎない、 手で造った聖所に入られたのではなく、 天そのものに入られたのです。」(24節前半)

言い換えるなら天の礼拝の影です。影は本体が動くとそれに順応して動きます。本体と影が別々に動いたのであれば、それはもはや影ではありません。同じように、幕屋も天で行われることが反映されるそのような場所なのです。

イエス様の十字架を通して、この幕屋での捧げ物は終わりました。イエス様がただ一度、ご自身をまことのいけにえとして捧げられたからです。

「しかしキリストは、 ただ一度、 今の世の終わりに、 ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、 来られたのです。」(26節後半)

血は命です。イエス様が十字架で流されたご自身の命の血潮。この血潮によって何がなされるのでしょうか。

「まして、 キリストが傷のないご自身を、 とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、 どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者とすることでしょう。」(4節)

イエス様の血潮は私たちの良心をきよめます。私たちは神様によってデザインされました。そこには神様の計画があります。

「私たちは神の作品であって、 良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 神は、 私たちが良い行いに歩むように、 その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)

しかし、なかなかそれをすることが出来ないというのが現状ではないでしょうか。神のイメージと現実のズレの原因は私たちの先祖からくる咎からくる呪いかもしれません。事実、私は深い悔い改めの中で様々な領域が変えられました。
人に対して恐れがあり、人に関わることが出来なかったのですが、今は先祖からの咎、自分の中の罪を悔い改めることにより、多くの人に心から愛を持って関わることができはじめました。みことばを宣言し、先祖からの咎を深く悔い改め、そこに命であるイエス様の血潮を宣言することによっての証です。

イエス様の血潮は私たちの良心をきよめます。
それだけではありません。イエス様の血潮は死んだ行いから離れさせます。この「死んだ行い」とは、宗教的な儀式、ただ時間だけを費やす無駄な事といった意味があります。礼拝を捧げることは本当に素晴らしく大切なことですが、それが習慣的なもの、また、心が伴わないものになっているか点検する必要があります。
先日礼拝の中で賛美を導く中で、私の高ぶりから神に対してではなく、人に対して働きをしてしまったことにより、私の中には強い罪責感と失望感がありました。経験に頼り、神の考えよりも自分の計画を押し通してしまったのです。主の恵みは日々新しく、その瞬間瞬間を聖霊様に聞きながら歩む必要があります。それを私は忘れていましが、イエス様の血潮はそのような私の死んだ行いから私を離れさせることが出来ます。

そして、最後はどうなるでしょうか。イエス様の血潮は生ける神に仕える者とすることが出来ます。イエス様の血潮は、私たちを真の礼拝者へと導いてくれるのです。
礼拝は日曜日に行われる礼拝だけが礼拝ではありません。毎日の歩みこそが礼拝です。礼拝は主から恵みをいただくだけが礼拝ではありません。むしろ、私たちの最良の者を主にお捧げするのが礼拝です。イエス様の血潮によって、真の礼拝者へと変えられていきましょう。

■A:考えてみよう
イエス様の血潮の12の宣言の9番目を声に出して4回宣言しましょう。

「まして、 キリストが傷のないご自身を、 とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、 どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者とすることでしょう。」

「イエス様の血潮は死んだ行いから私の良心をきよめ、生ける神に仕えることができるようにされました。」
「アーメン!」×4

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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一つのコメント


  1. 鈴木理絵 より:

    日々礼拝したいと思い家で学ぶものです。日曜礼拝もいっております。でも、みなさんとなごめず、もっとみなさんにみみをかたむけようとおもいます。すみません。こんなわたしですが。よろしくおねがいします。

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