■S:今日の聖書の言葉
へブル書6章1節
★『ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、』
■O:今日のコラム
死んだ行いとは、なんだろう?
『目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。』(マタイ23:26~28)
イエス様は実は、彼らの行いは死んだ行いである、と言っています。
外側はきよそうに見えて、内側は死んでいるから。
これが死んだ行いです。
死人の骨とは、本質が死んでいるという事です。
そこには、汚れが満ちています。
それが偽善です。
偽善とは、原語的には、仮面をかぶって演じているという意味です。
死んでいるのに、生きているかのように装っているという事、汚れているのに、きよさを装っている事です。
私たちは、この心を絶えず見張るのです。
また不法とは御言葉に従わない事。
行いは従っているように人には見えても、神には心のきよさの伴わない行いは不従順と同じなのです。
行いで姦淫しないでいても、心に情欲を抱いて異性を見れば姦淫です。
人の力では、死んだ行いをどうすることもできません。
いのちである方が私たちに命を得させ、さらにそれを豊かにさせるのです。
私たちを死んだ行いから、生ける神に仕えるようにするものが3つあります。
Ⅰヨハネであかしするものが3つあるといった御霊と水と血です。
『あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。』
(Ⅰヨハネ5:7~8)
この3つが一つになって、私たちは生ける神に仕えるようになります。
そしてこの事は悔い改めによってもたらされます。
回心とは、悔い改めのことですから。
1 御霊
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
(ローマ8:13)
肉に死に、御霊に従うなら生きるのです。
だから、悔い改めなしに、御霊に生きる事はできません。
悔い改めをして、自分の古い性質に死ぬことが求められています。
日々、悔い改めて、御霊の声に聞き従おう!
そして御霊に導かれて歩むなら、それこそ神の子どもなのです。
私たちは、子としてくださる御霊によって、アバ父に近づくのです。
2 水
『キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。』(エペソ5:26)
私たちをクリーンにし、聖なるものとするのは御言葉です。
パリサイ人に対してあった、『内側をきよめなさい』という先の御言葉にある通り御言葉によって洗われる事が必要です。
悔い改めるにも、御言葉が無ければ、汚れ自体も分かりません。
御言葉の通りの自分になるように悔い改めるのです。
この御言葉はレーマです。
神の口から出た一つひとつの言葉(レーマ)が私たちを生かします。
パリサイ人の内側は不法で満ちていました。
つまり従順が求められています。
そもそも御言葉が語られること無しに従順はできません。
3 血
『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。』(へブル9:14)
主の血潮は、私たちを死んだ行いから、生ける神に仕えるようにしてくれます。
この『きよめる』、とは原語的には、しみを抜くという意味です。
御霊と御言葉によって示された罪や汚れをできるだけ具体的に述べ、取り除いていただき、その部分をきよめていただきましょう。
祈りは具体的なほど良いのです。
染み抜きはピンポイントですると強力なものです。
罪を告白し、血潮を宣言し、しみや汚れを取り除いていただきましょう!
すべてのものは血によってきよめられるのです。
■A:考えてみよう
この3つによって、毎日至聖所に入り(隠れた所におられる御父に祈る)、また宿営の外(遣わされている場所)に出て御父に仕える。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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