■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書6章10節(使徒の働き6章)
★ 私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。
■O:今日のコラム
この記事を見る皆さんは、主の語りかけを求めておられる方であると思います。私もその一人です。
飢え渇いて主から語られることを求めていきましょう!人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によるからです。
主から語られる言葉によって私達は霊的に成長していきます。
ところが、この頃のユダヤ人は、御言葉を喜ばず、聞こうとしませんでした。主はそれを耳が閉じている、と言われました。
この『耳が閉じているのか』という言葉は、直訳では『耳が割礼を受けていないのか』です。
割礼は一つには、肉を切り捨てる事を表しています。だから聖書では『包皮の皮を切り捨てなさい』ではなく、『包皮の肉を切り捨てなさい』と書かれています。
割礼はどこに施されるべきなのでしょう?
新約の我々は肉体の割礼は受けません。しかし、心と耳に割礼を受ける事をすすめられています。
心においては、肉により頼む心、肉によって歩もうという心を脱ぎ捨てることです。耳においては、自分の利益となる声だけを求める耳を捨てて、何でも受け入れる耳を得ることです。
では、どうしたらよいのでしょう?
修行も、我慢も戒めも私達の心と耳を主の前に裸にする事は出来ません。かえって余計なもので武装させ、着込んでしまうだけです。
それは御霊によるのです。
『かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。』(ローマ人への手紙2章29節)
『かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。』(使徒の働き7章51節)とあります。
主の前に進み出て、日々、異言を用いて祈りましょう!
聖霊様との親しい交わりによって私達の心と耳は、肉を捨てて、ますます裸になり、ますます素直になる事が出来るからです。
■A:考えてみよう
異言を与えられている方は、異言で祈りましょう!
与えられていない方は、それを求めて祈りましょう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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