■S:今日の聖書の言葉
創世記22章6〜9節(創世記21章)

★アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

■O:今日のコラム
薪木を背負って歩いていくイサクの姿は、イエス様が十字架を背負って歩く姿です。
同時に、十字架を背負って歩んでいくイサクの姿は、キリストの弟子の姿。
キリストの弟子は、自分を捨て、十字架を負い、イエス様についていきます。
そして当然その十字架を全うすることに向かって歩んでいるのです。
十字架は飾りではありません。
イサクはいけにえに関して疑問を持っていました。そして、自分自身がいけにえとなるということを自分が縛られる時に悟ったはずです。薪木の上に置かれる事は、十字架にはりつけにされるイエス様の姿です。イサクは父の願いを知り、そのために喜んで自らの体を捧げたのです!
彼は、薪木を背負って山を登れるほどに体力のある若者でした。100歳をとっくに超えたアブラハムから逃れようと思えば逃れる事は可能でした。彼は自分の意思を持って受け入れたのです。
私たちも自分の肉を捨て、十字架(自分に語られた御言葉)を背負って歩んでいく、キリストの弟子です。私たちも主に従順するがゆえに会う束縛を味わうときが来るかもしれません。従順ゆえにバカにされ、見下され、非難される、不都合を味わう、という事は起こるのです。しかし、自分の意思を持って、従順ゆえに会う苦しみを受け入れ、自分の体を生きた備え物として捧げてこそ、主の栄光を現す事になるのです。
本当に肉体のいのちを捧げる事もありえますが、私たちは、小さな領域で、古い自分の死を味わい、御言葉が成就し、神の栄光が現される事を毎日経験していけるのです。
だから、ルカの福音書では、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私についてきなさい、と命じられているのです。
イサクはなぜ、そんな事ができたのでしょうか?それはイサクが父に溺愛される者であったからです。父の愛を十分に受けてこそ、弟子としての歩みは喜びを持って全うされるのです。完全な愛は恐れを締め出します!

■A:考えてみよう
今日も父の愛を受ける時間を持ちましょう!そして、弟子として歩みましょう!何も恐れず、力強く愛に生きていきましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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