■S:今日の聖書の言葉
黙示録15章3節 前半(ゼカリヤ書11章)

★彼らは、 神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。

■O:今日のコラム
黙示録は本当にエキサイティングな書簡です。しかし難解な書簡であることは確かです。イエス様の最もそばに居て、心臓の鼓動の音も聞いた使徒ヨハネが書いた黙示録。そのイエス様との親密な関係の中でこの奥深い啓示は開かれていきました。もし、私たちも黙示録の啓示を求めるなら、まず何よりもイエス様との親密な交わりを求めていきたいものです。
そのような難解な黙示録ですから、様々な解釈があります。私たちはそれらを学び、自らがみことばを通して吟味していく必要があります。今日、私に語られた神様からの啓示もぜひ、皆さんご自身で吟味してみてください。

黙示録15章は、大きく分けて前半と後半に分けられます。5節と6節がその分かれ目です。5節までは幕屋の大庭の部分、6節からは聖所の部分が書かれています。見せかけだけでなく、真の礼拝者が礼拝をする姿を見ることが出来ます。彼らは環境が整った最高のステージで礼拝をするのでしょうか。そうとは限りません。みことばはこのように語ります。

「また私は、 天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。 七人の御使いが、 最後の七つの災害を携えていた。 神の激しい怒りはここに窮まるのである。」(15:1)

神の激しい怒りが窮まる時、本物の礼拝が捧げられるようになります。

「 罪の増し加わるところには、 恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)

という通りです。世の中を見回して暗闇を感じるなら、あなたは真の礼拝者へと進む準備ができているということを知りましょう。その暗闇を見て神に叫びとりなすのが私たちの使命です。

2節にはまた、このように書かれています。

「私は、 火の混じった、 ガラスの海のようなものを見た。 獣と、 その像と、 その名を示す数字とに打ち勝った人々が、 神の立琴を手にして、 このガラスの海のほとりに立っていた。」

エゼキエルも

「第三十年の第四の月の五日、 私がケバル川のほとりで、 捕囚の民とともにいたとき、 天が開け、 私は神々しい幻を見た。」(エゼキエル1:1)

と言うように、川のほとりで幻を見ることが多いように思えます。川とは、神の喜びというエデンを通って流れ、四方(全世界)に流れ行く神の喜びの川。また、イエス様が言われた

「わたしを信じる者は、 聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、 生ける水の川が流れ出るようになる。 」(ヨハネ7:38)

の川です。
神の喜びから流れ出る川が集まるところが海です。聖書で「海」と出てくるなら、多くは良くない集まりを指すことが多いですが、神の川の集まるガラスのような海は神の喜びが集まるところです。ここで啓示は開かれていきます。

そこでヨハネが見たものは

「獣と、 その像と、 その名を示す数字とに打ち勝った人々」

です。これはこの世のシステム、バビロンのシステムに打ち勝った人々です。つまり、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢ではなく、主ご自身を求める人々です。自分を捨て、日々イエス様の十字架を背負って主についていく者たちです。そのようなものは、この地がもたらす楽器ではなく、主ご自身が与えて下さる神の立琴を与えられます。このような栄光に満ちた楽器を与えられた者は何をするのでしょうか。続く3節にはこのようにあります。

「彼らは、 神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。…」

モーセの歌とは何でしょうか。モーセが山で与えられた律法、旧約聖書です。それでは小羊の歌とは何でしょうか。ただ一人のまことの子羊なるお方、イエス・キリストが書かれている新約聖書です。律法はユダヤ人に託されたものです。イエス・キリストの福音はユダヤ人はもちろんのこと、異邦人にも開かれた神の御国の福音です。この二つ者もが一つとなって礼拝を捧げるのです。
また、律法に書かれているのはモーセの幕屋です。そこでは礼拝が行われていました。旧約聖書に出てくる新約聖書の礼拝の雛形といえば、ダビデの幕屋に見ることが出来ます。そこでは絶え間ない賛美と祈りが捧げられていました。この幕屋が一つとなったのがソロモン神殿です。そこでは主の栄光の雲が現れて、祭司たちは立って仕えることが出来ないほどでした。ふたつのものが一つとされる時、主の栄光が現れていきます。

ここまでが幕屋の大庭の部分です。つまり、悔い改めを象徴する全焼の生け贄の祭壇、そして真の礼拝者という自分のアイデンティティを回復することを象徴する洗盤が啓示されています。

6節にはこのようにあります。

「そしてその聖所から、 七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。 彼らは、 きよい光り輝く亜麻布を着て、 胸には金の帯を締めていた。」

聖所の中で光るものといえば何でしょうか。燭台(メノラー)です。垂れ幕で外部と区別された真っ暗な聖所の中で唯一光を放つのは燭台からの光です。燭台は聖霊様、御使、また教会を指し示します。
また、6節の中には

「金の帯を締めていた」

とあります。帯は愛であり、また真理を意味します。真理とはみことばです。これは幕屋の聖所において、パンの台を示します。
燭台はパンの台の正面に置かれていました。みことばを照らすのは聖霊様の光です。そうするならロゴスはレーマになります。殺す文字から生かされるいのちへと変わります。

7節にはこのように書かれています。

「また、 四つの生き物の一つが、 永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、 七人の御使いに渡した。」

鉢とは何でしょうか。祈りです。これで聖所にある3つの器具、燭台、パンの台、香の壇が揃いました。「金」は聖書では神様のご威光を象徴します。また、試練を通して錬られ、火で精錬された聖徒も意味します。
このようなことを経て、最後に何があるのでしょうか。8節にはこのように書かれています。

「聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、 七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、 だれもその聖所に、 入ることができなかった。」

聖所に神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たさるのです。ハレルヤ!しかし、七つの災害が終わるまではだれもその聖所に入れないとも書かれています。私たちの願いは天の聖所、そして至聖所に導かれることです。そのためには患難を通されることもあるかもしれません。
しかし、主は私たちを決して見放さず、見捨てられないお方です。死に至るまで忠実にみことばに従順し続けましょう。そして、神から「よくやった!良い忠実なしもべだ!」と言われる日まで、キリスト目指して走り続けようではありませんか!

■A:考えてみよう
神様との更なる深い親密な関係を求めていきましょう。そして、その関係の中でみことばを味わいましょう。一番は祈りの家でみことばを読むことです。年末年始、少しでも時間があるなら祈りの家で一年の感謝、また来るべき新しい一年の計画をみことばを通して主に教えていただきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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