■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書13章1節

★さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

■O:今日のコラム
イエス様がいよいよ十字架を目前にして、弟子たちにされたこと、それは、ご自身の愛を余すことなく示すことでした。
そして、イエス様がされたこと、それは弟子たちの足を洗うことでした。
先日、韓国からキム・ウヒョン監督を講師に迎え、学ぶ中で、ここの洗足についての解き明かしをして下さいました。
ヘビ(サタン)の食べ物である「ちり」。また、私たちの足についている「ちり」。
それは、人間的な教え、自分の古い考え、この世の価値基準などを表しています。
私たちは主にあって、『王である祭司』として召されています。
ビジネスマンであろうと、主婦であろうと、学生であろうと…etcその召しは同じです。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。。。』(Iペテロ2:9a)

けれども、私たちに、この様な「ちり」がついている時、私たちは、御言葉を基準とした考え方、真理を土台とした歩みをすることが出来ず、神様が召して下さった通りの、本来の歩みをすることが出来ません。
イエス様は、弟子たちについている、この様な「ちり」を洗い落として下さいました。
そして、『主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。』(ヨハネ13:14)と言われました。
イエス様が愛された愛の行動、それは弟子たちの足の「ちり」を洗い、彼らの中の人間的な考え、伝統、この世の価値基準を拭い、彼らの中の不法を取り除き、弟子たちが本来の召された状態、王である祭司として、主の御前に立つことが出来るようにすることでした。
旧約の時代、祭司は天幕に入る前に、先ず手足を洗わなければなりませんでした。それは天幕で死なないため、と書かれています。(出エジプト記31:19)
今日、私たちもこの世の価値基準、人間的な教えを持ち続けて生きるのなら、本当の主との一致には至ることがなく、霊的な死を遂げるでしょう。

私たちが互いの足を洗うこと、それは互いに、相手が王である祭司として、主の御前に立てるようにすることを啓示しています。
不法がはびこる時代、愛が冷たくなる時代に私たちは生きています。(マタイ24:12)
私たちは先ず自分自身を「王である祭司」として立つことが出来るようにするために、真理、つまり神のみことばを土台とした歩みを、今一度、立て直しましょう。
これから、選民をも惑わす力は増していく一方でしょう。(第二テモテ2:3〜12)その中で、惑わされないように何を頼りにしたらいいのでしょうか?
それは真理である神のみことば以外にありません。神ご自身である、みことばを益々愛する者となっていきましょう!

■A:考えてみよう
みことばによって互いの足の「ちり」を洗い合い、互いが罪から離れることが出来るように、互いが、不法(神の真理からそれている状態)から、義の道へと立ち返ることが出来るように、仕え合い、愛し合っていきましょう。

『キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。』(コロサイ3:16)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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